まだ春の気配遠い一月下旬。京都で生まれ育った三人は故郷を離れて正十字学園にいた。中学の制服に身を包んだ彼らは大役を終えた後のようにほっとした表情で学園の敷地内を歩む。
 周囲には彼らと同じような表情の、また自信に満ち溢れていたり反対に落ち込んでいたり、ともかく色々な感情を滲ませた色々な制服姿の学生達が見受けられる。共通点など年齢くらいしか思い付かないような彼らの目的はただ一つ。本日開催された正十字学園高等部の入学試験だった。
 元々暗記が得意で努力家でもある勝呂は変なミスさえしていなければ余裕で合格だろう。子猫丸も同じく安全圏。心配なのは志摩であったが、この半年の彼の頑張りぶりは他の二人もよく知っているので「まぁ大丈夫だろう」と考えている。
 そんなわけで彼らは若干肩から力を抜いたまま待ち合わせの時間が来るまで学園内で時間を潰していた。
 尚、待ち合わせの相手とは三人の保護者として京都からここまでついてきた志摩柔造である。合格すれば来年から寮生活が始まる勝呂達であるが、今はまだ中学生であり、とにかく力の全てを試験にだけ注がせるために世話役と護衛を兼ねて明陀から柔造が遣わされていたのだった。
 しかし実のところ“遣わされていた”と言う表現には少々語弊がある。柔造は(三人には知らせていないが)ある目的を持ち己の意志で正十字学園にやって来ていたのだから。



□■□



 時間は少し遡る。
 高等部の入試が行われている最中、志摩柔造は学園の理事長であるヨハン・ファウスト五世もといメフィスト・フェレスと相対していた。
 表に理事長室というプレートがつけられた一室はやけに豪華な内装をしており、京都の純和風建築で育ってきた柔造にはいささか落ち着かないものとなっている。だが今はそんなものに気を割くよりもっと重要な事柄が柔造の頭を占めていた。
「理事長先生……先日手紙送らせてもろた件なんですけど、どないでしょうか」
「面白い申し出だと思いますよ。こちらとしても貴方のような優秀な祓魔師が明陀宗を介さず直接指示できるのはありがたい」
「ちゅうことは」
「まあまあ、落ち着いて。話は最後まで聞くものです」
 手袋に包まれた手をひらひらと振り、執務机の向こう側で椅子に腰掛けているメフィストは薄く笑う。
「貴方が京都を離れ祓魔塾の講師として正十字学園町に住む……先程も言いましたが、これは正十字騎士團日本支部の支部長として大変ありがたい申し出です。緊急を要する任務にもすぐ対応してくれる優秀な祓魔師が増えるわけですから。また明陀宗としても座主血統・勝呂竜士の守護の一人として貴方がこちら側にいるというのは決して悪い案ではないのでしょう。むしろ貴方が明陀を離れてこちらに住む許可を取るために使った理由はそれしかないでしょうしね。ですが、貴方の真の目的は別だ」
 メフィストの言い分に柔造は頭を縦に動かす。
 そう。柔造が己を祓魔塾の講師としてここに置いてくれるよう頼み込んだのは何も勝呂達が心配だったからだけではない。勿論、大事な血を引く人間を傍で守護するのも重要だが、わざわざ明陀の上級祓魔師が京都から出張しなければいけないほど勝呂竜士は弱くも愚かでもなかった。
 柔造の目的は―――
「奥村燐の傍におりたい。あの子が抱えとる寂しさを少しでも俺が埋めてやりたい思うんです」
 昨年の夏に出会った青い目の子供。孤独を抱える燐の傍で少しでも彼を笑顔にしてやりたいと柔造は強く思うようになっていた。
 寂しいくせに燐は自分から手を伸ばすようなことをしない。ならば柔造から手を差し出して、無理矢理にでも掴んでしまえばいい。そのために必要だと思ったのが、まず物理的な距離を縮めることだったのである。
 以前燐本人の口から彼の事情を聞いた際、彼がどこに住んでいるのか詳細を知ることまではできなかったが、説明の中で出てきた人物を考えれば正十字学園の周囲――ひょっとすると敷地内――であるのは明らか。したがって柔造はメフィストに己をこの地に置き祓魔塾の講師として雇ってくれるよう頼み込んだのだ。
「あの子の寂しさを埋める、ですか」
 柔造の台詞を繰り返すようにメフィストは呟く。
「だとしたら、まず私の許可より本人にどうしたいか聞くのが筋と言うものでしょう」
「本人に……?」
 柔造が首を傾げたその瞬間、ノックもなく理事長質の扉が開いた。
「メフィストー。言われてた仕事終わったぜ」
「お疲れ様です、奥村くん。貴方にお客様が来ていますよ」
「客?」
「あっ」
 メフィストの言葉に新しく入室した人物は間抜け顔を晒し、柔造はその人物の姿に目を見開く。無理もないだろう。何の前触れもなく理事長室に入ってきた彼こそ柔造が傍にいたいと宣言したばかりの人物だったのだから。
「りん、くん?」
「柔造さん……? なんでここに」
 任務帰りらしい燐は祓魔師のコートを羽織っていた。ただしその胸に祓魔師としての階級証(バッチ)は無く、彼が非公式な存在であることを示している。
 ざっと全身を眺めたところ、特にこれと言った怪我は負っていないように見えた。悪魔の力で多少の怪我などすぐに治ってしまうようだが、コートに付いた汚れもそれほど酷くないので大怪我を負った後にそれが治ったのを確認してから戻って来た、ということではないだろう。
 メフィストも柔造と同じ考えだったらしく、燐を心配した素振りは見せない。そんな彼はイエローグリーンの瞳で再び柔造の姿を捉えると、にこりと笑って口を開いた。
「志摩柔造くん。今日、私が奥村くんに頼んだ仕事は本来どのレベルの祓魔師に依頼すべき難易度だったか想像できますか?」
「レベル、ですか」
「ええ。そうです。ちなみにヒントを差し上げますと……そうですねぇ、今日は正十字学園高等部の入試ですね。そして奥村くんの双子の弟もこの試験を受けています。彼の心配事を取り除くのは奥村くんの望みですから―――」
「……中一級、もしくは中二級程度の」
「ハズレです」
 柔造に最後まで言わせることなくメフィストはあっさりと告げる。
 燐の弟・奥村雪男は史上最年少で祓魔師になった逸材であり、現在は中一級の祓魔師として活動している。そんな彼も本日は高校入試の真っ最中であり、ならば燐が彼の任務を肩代わりしているとばかり思ったのだが……どうやら違うらしい。しかし、だとしたら一体どのレベルの任務を燐が請け負ったというのか。
 そんな考えが表情に出たようで、メフィストは柔造の顔を見てニヤニヤと口の端をつり上げながら燐を手で示した。
「彼は騎士團の最終兵器となる希有な存在です。そんな彼が父と慕うのは? その慕われている人物が後見人をしている子供の名前は? 子供と奥村くんの関係は? そして、後見人の称号は?」
「ッ、まさか! そんな有り得へん!!」
 メフィストに叫び返しながら柔造は燐を凝視した。驚愕の表情で見つめられた燐は小さく肩を震わせ、それから視線を逸らして気まずそうに頬を掻く。
 彼の鋭い犬歯が覗く口から零れ落ちた答えは、
「……だってジジィが仕事だと雪男が安心してテストできねえかもしれねーじゃん」
「それだけで?」
「そ、それだけって! 大事なことだろ!?」
 思わず柔造が呟いた言葉に燐はムッとした表情で返す。彼にとって弟という存在は余程重要であるらしい。ただ身体が傷つかないように守るだけではない、己の全てを注いで心身ともに守護すべき対象であると考えているのだ。
「あ、ああ。ごめんな。そやな。確かに大事なことや」
「だろー」
 柔造が己の失言を訂正すれば、素早く表情を変えて燐が笑みを浮かべた。単純と言うことなかれ。これは奥村雪男という人物が燐の一喜一憂に深く関わる人間だという証拠だ。
(それやのに燐くんは弟と会話すらできひん……。いや、生きてることさえ明かせへん)
 ただ遠くから見守り、その隣に己がいないままで完成される幸せを祈るだけ。
 あまつさえ聖騎士に任されるレベルの任務までこなせてしまうが故に、その報われない献身ぶりは相当なものになっているのだろう。加えてこれは燐が望んでやっていることであるため、周囲の者が止めるわけにもいかない。
 それならば―――
「あんな、燐くん。実は俺、ちょぉ燐くんに訊きたいことがあんねん」
「俺に訊きたいこと?」
「おん。ほんまは理事長先生に答えてもらお思てたんやけど、理事長先生本人が燐くんに訊けて言わはるから」
「……ふーん。ま、俺が答えられることなら何だって訊いてくれていいけど」
 燐はメフィストを一瞥し、いつもの食えない笑みを確認してから柔造に視線を戻してそう答えた。自分がこれからどんな問い掛けをされるのか全く予想もしていない気軽さである。まさか己が他人に対してことごとく避けてきた話題であるとも知らずに。
 柔造はそれを十分理解した上で「ありがとぉな」と告げ、本題を口にした。

「俺、燐くんの傍におりたいんや」

「……え」
 目を丸くして息を呑む燐に柔造は続ける。
「燐くんの手助けがしたい。任務でも、それ以外でも、燐くんに頼って欲しいんよ。……なあ、あかん?」
「あ、あかん? って訊かれても」
「奥村くん。君が思った通りに答えて構わないんですよ」
 予想外な問いかけに戸惑う燐へメフィストがそう告げた。深く考える必要はない、自分が感じるままに答えればいいと。
「任務で頼って欲しいとか言われても、俺、ジジィの……聖騎士クラスの仕事だってやったりするぞ。でも柔造さんは上二級だろ」
「実力が足らんのやったらついて行かへんし、早くついて行けるように修行して強ぉなる。無茶して燐くんに心配させるようなマネはせえへん」
「俺と一緒に悪魔祓いやってもあんま公にできねえことばっかりだけど」
「名声とか金が欲しゅうてこの仕事やってるわけちゃうし、そもそも俺がこっち来たんは燐くんとおりたいからや」
「じゃあ普段の……任務以外の時は何やってるつもりだ」
「燐くんが傍にいてもええて言うてくれたら理事長先生がここの講師として俺を雇ってくれるみたいやで」
「……」
「なあ、燐くん。俺のことも傍に置いてくれへん?」
「……」
「燐くん、俺はな、君に頼って欲しいんや。寂しい時に……いや、暇な時でもええ。燐くんが話し相手が欲しい思た時にでも俺を選んでくれるような、そんな人間になりたいんよ」
「…………どうして」
「?」
 ぽつりと零された呟きが聞き取れずに柔造は小首を傾げる。
 すると燐は一度だけ窺うように柔造を見た後、視線を床に落とし少しだけボリュームを上げて囁いた。
「どうして俺なんだ?」
 自分の傍にいても得るものなどないはずなのに。そう言いたげな声で。
 その問いかけに柔造は一瞬だけ目を瞠り、しかしすぐに柔和な笑みを浮かべる。どうしても何も、答えは一つしかない。
「一生懸命頑張っとる燐くん見とったら愛しゅうてたまらんようになったんや」
 だから傍にいたいと願った。
 そう柔造は即答する。瞬間、燐の顔がくしゃりと歪んだ。
「なんで……なんでジジィもアンタも俺に優しくしてくれるんだ。俺は最後にアンタ達を悲しませることしかできねえのに」
 泣くのを耐えるかのようにきつく眉根を寄せて燐は掠れた声を出す。
 そうやって悲しいくらいに他人を思いやってしまう燐だからこそ、彼を知った人間は奥村燐を放っておけないのだ。
 ひとりぼっちにさせたくない。幸せにしたい。笑って欲しい。燐が青焔魔の落胤であるがゆえに彼が想像する未来になる可能性は決して小さくなく、安易に「心配するな。お前が騎士團から敵視されるはずがない」などという気休めを口にすることはできないが、それでも幸せを願う気持ちは燐を知るほどに強くなる。
「なあ、燐くん。それでもええねん。俺は燐くんの傍におりたい」
「…………じゃあさ。もしもの時、アンタは俺を切り捨てられるか?」
「できる。燐くんがそれを望むんやったら」
 嘘だ。
 もし燐のことが騎士團にバレて燐が処刑されることになったら、その時己がどんな行動を取るのか。今の柔造には少しも保証できない。ひょっとしたら泣き叫ぶ燐を抱えて逃走劇でもやってしまうかもしれなかった。だが柔造はそれを押し殺して首を縦に振る。そうしなければ、燐は隣に立つことを許してなどくれないだろうから。
「本当に?」
「ホンマのホンマ。神サンでも仏サンでも月でも燐くんでも、何にでも誓ぉたるよ」
 だから、さあ。この手を取って。どうか許すと言ってください。
 柔造は微笑みを浮かべて利き手を差し出す。
 燐の青い瞳がそれを見つめ、そして―――。



□■□



 試験が終わってほっと一息つきながら奥村雪男は正十字学園の敷地内にいた。この後には任務も何も入っていないので修道院に真っ直ぐ帰るしかないのだが、予定を詰めることが最早趣味と化している雪男にとってはなんだか落ち着かなかったりもする。
 それが原因かどうかは判らないが、雪男は他の大勢の受験生と同じく、他の学業施設とは一線を画するこの正十字学園の敷地を軽く見て回っていた。今日ばかりは在校生だけでなく受験生のためにも校内の施設が解放されており、テラスで談笑する同じ制服の少年少女達や食堂で遅めの昼食か早めの夕食をとっている者、また理事長を模したブロンズ像(遊園地にあるのとは違ってほぼ等身サイズ)の前で写真撮影をしている者など、様々な姿が見られる。
 十三で祓魔師の資格を取るまでこの学園内に設けられた祓魔塾に通っていた雪男としては今更珍しいものでもなかったが、それでも受験という一仕事を終えた後だと少しばかり違った印象を受けた。
「……?」
 ふらふらと散策していたその時、誰かに呼ばれた気がして雪男は足を止めた。
 振り返ってみると見覚えのない男子三人組が関西弁で何事かを喋っている。が、三対の目は雪男の方など見ていない。
「そうそう。奥村くんですよ、奥村くん。坊と子猫さんも覚えてはりますよね? 奥村くんもここの試験受けはったんでしょか」
「まぁあいつも俺らと同い年やからな」
「でも人が多すぎて見つかりませんねぇ」
「祓魔塾の方におったりして」
「せやったら見つからへんやろ。俺らはまだ鍵貰ぉてへんのやし」
 へらへら笑う少年に「坊」と呼ばれた少年はそう答え、ほんの少し眉間に皺を寄せる。どうやら会えるならばその「奥村くん」とやら会いたかったらしい。
 他の二人も同じ気持ちのようで、残念だとそれぞれ呟いていた。
(……祓魔塾って単語が出るってことは来年の祓魔訓練生か)
 彼らが言う「奥村」が自分ではないと判って――繰り返しになるが、雪男は彼らに見覚えが無い。また彼らも近くにいる雪男に対し何の反応も見せないのだから――、雪男の思考は三人の他の台詞へと移る。
 来年の訓練生ということはイコール雪男の生徒ということだ。西の訛が強いから京都出張所に縁のある者達かもしれない。となると、基礎知識はそれなりにあると見て良いだろうか。
 講師の話は聞いていたがまだ来年の塾生の名簿などは手に入れていなかったので、雪男はつらつらとそんなことを考えながら視線を逸らす。進行方向は先程までと違い理事長室がある方へ。三人組、祓魔塾、講師と思考が繋がって、どうせなら今年の春から顔を合わせる回数も増えるであろう上司に挨拶しておこうかと思い至ったためだ。
 そうやって雪男が踵を返すと、ちょうど正面から一人の男性が歩いてきた。件の三人組のうち軽い雰囲気を持つ少年とよく似た顔つきの彼は雪男を通り越してその後ろに声をかける。
「坊、お待たせしました。お疲れさまです。子猫丸、廉造、あんじょうできたか?」
「あ、柔兄。なんとかできたでー」
「僕もなんとか。柔造さんはもう用事の方終わりはったんですか?」
「おん。まぁ一応な」
「なんやエラい機嫌良さそうやないか、柔造。確か支部長と話がある言うとったけど……それ関係なんか?」
「さすが坊」
 三人組の中心人物らしき少年を誉め、柔造と呼ばれた男は柔らかく笑う。
 その笑みは赤の他人から見ても本当に嬉しいのだと判るもので、余程良いことがあったのだろうと推測できた。
「よぉ冴えてはりますわ。でも詳細はまだ伏せさせといてください。今年の春には判りますさかい」
「? なんやそれ」
「ちょ、柔兄! そない顔で教えてくれへんとか殺生やで」
「確かに気になりますわ」
 三者三様にそう告げるも柔造は笑うだけで答えを口にしない。
 雪男も彼の解答が気にならないわけではなかったが、他人は他人、自分は自分である。このまま盗み聞きになってしまうのも気が咎めたため、そっとその場から離れた。
 まさか春になって彼ら“三人”ではなく“四人”と再会するとは思いもせず。



□■□



 柔造が去ってしばらく後。下した判断があれで良かったのか多いに悩みつつも、燐はひとまず執務机を挟んだメフィストの正面に立って任務の報告を行っていた。
 しかしそんな中、突如として机の端に置かれた電話が鳴り、燐の肩がぴくりと跳ねる。
 メフィストは苦笑して受話器を持ち上げた。そして二言三言交わすと彼は受話器を置き、
「奥村雪男が挨拶にここまで来るみたいですよ」
「ッ!? お、俺出てく!」
「まあ落ち着きなさい。まだ報告が終わっていないでしょう? そこのソファにでも掛けて弟くんに会釈の一つでもしてあげなさいな。フードを被っていれば顔も見られずに澄むでしょうし」
「む、むむむ無理! 無理無理ぜってー無理!! 俺そんな余裕ない!」
「……大好きなアイドルを前にしたシャイなファンですか、貴方は」
 苦笑を深めるでもなくメフィストは呆れ顔で溜息を零した。
 そんな風に「仕方ない子ですねぇ」とでも言いたげな溜息を吐かれても無理なものは無理なのだ。
 燐はいつの間にか、雪男には己が誰であるか知られる以前にその存在を認識されることすら避けたい、という思いを殊更強く抱くようになっていた。それは己の存在を知ることで巻き込んでしまった獅郎や柔造という前例があるからに他ならない。もし雪男が燐の存在を知って――獅郎達ほど燐に係わろうとしなくても――少しでも燐に関することで心を痛めるようなことがあったら……。とてもじゃないが耐えられそうになかった。
「雪男の中に奥村燐は必要無いんだ。だから会っちゃいけない」
「顔を隠していたとしても?」
「顔を隠していようが声を出さずにいようが、俺を知られる可能性は少しでも排除するに越したことはねえだろ」
「そうですねぇ……貴方がそこまで言うなら」
 メフィストは燐の真剣な双眸を受け止めて肩を竦める。どうやら解ってくれたらしいと燐は胸を撫で下ろした。
 しかし。
「ああ、でも。もう遅かったようですね」
「へ?」
 燐がどういう意味だと問う間も無く、コンコンと扉がノックされる。顔を真っ青にした燐は何もできずに立ち竦んだ。メフィストがいつもの呪文を唱えなければフードを被りもせずに扉が開くのを見つめることになっていただろう。
「フェレス卿、奥村雪男です。入ってもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
 メフィストが扉の向こうの問いに応え、次いで両開きの扉が片方だけ動く。強制的にフードを被されていた燐はぴっと緊張で全身を硬くし、メフィストの正面にあたるその場から一歩横に逸れるのが精一杯だった。
 失礼します、という一言と共に入室した奥村雪男はその緑がかった青い双眸で祓魔師のコートにフード姿の人物(燐)を捉えると、先客がいたことに驚いて少しばかり目を瞠る。だがあまり長く凝視していても失礼だと思ったのか、軽い会釈をして燐から目を逸らした。
 そんな弟の反応に燐はほっとしたような、けれど少し残念なような……いやいや残念って何だよ、と胸中でツッコミを入れながらぎくしゃくと壁際へ寄る。その行動はメフィストへ挨拶しに来たらしい雪男の邪魔をしないためと言うより、むしろ弟にこれ以上己を認識されないため少しでも視界から外れようとするがゆえのものだった。
 メフィストも燐に更なる心労をかけるつもりは無いらしく、雪男に向かって「そこの彼のことは気にしないでくださいね」と薄く笑って告げる。その一言のおかげで再び雪男の視線が燐の姿を捉えたので、メフィストが本当に燐のためを思って告げた台詞なのかどうかは正直なところ怪しいものではあったが。
 ともあれ、再び燐に向けられた眼鏡越しの視線が黒地のコートに映えるロザリオの存在に気付いた。しまったと思ってももう遅い。先月の誕生日に獅郎から貰ったそれは雪男もまた持っているはずの物だ。
「そのロザリオは……」
「ッ」
 何と答えればいいのか。そもそも声なんて出せるはずも無いのに。
 混乱する燐を助けたのは他でも無いメフィストだった。
「大事な人から貰ったんですよね。だから肌身離さずいつも首から下げている」
 ね? と付け加えられ、燐は慌ててこくこくと首を縦に振る。
「ひょっとして奥村雪男くん、貴方もこれをどこかで見たことが? まあ市販品ですからどこにでもあると言えばある物なんでしょうけども」
「……あ、はい。すみません。同じ物を僕も持っていたので」
「そうでしたか。いや、偶然というのは意外とあるものなんですねぇ」
 飄々とした態度でそう告げると、メフィストは雪男を促すように執務机を挟んだ己の正面――先程まで燐が立っていた場所――へ来るよう促した。
「なにはともあれ、入学試験お疲れ様でした。奥村雪男くん。……いえ、もう来年からは祓魔塾で講師をしていただくのですから“奥村先生”とお呼びしましょうか」
「若輩者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそ貴方のような優秀な祓魔師が育ってくださって本当に嬉しく思いますよ。これからもその力を騎士團のために役立てていってくださいね」
「はい。そのつもりです」
 真面目そうな顔にほんの少しの微笑を浮かべて雪男は答えた。だがその横顔をフードの下から覗き見ていた燐は瞬時に弟の台詞と心情が異なっていることに気付く。
 奥村雪男は別に騎士團のために働こうなどとは欠片も思っていない。日本支部長であるメフィストにわざわざ挨拶をしに来たのも相手を敬う気持ちからではなく、そうした方が外面上良さそうだと思いついたからでしかないのだろう。
「それでは、今日はこれで。お忙しいところお時間を頂きましてありがとうございました」
 二言三言交わした後、雪男はそう言って一礼し、理事長室を去った。
 残された燐は扉の向こう側の足音が悪魔の耳にも聞こえないくらい遠ざかったのを確かめてからほっと息を吐く。それからいきなり頭を抱えてしゃがみ込むと、
「ゆ、ゆゆゆゆゆゆ雪男と喋っちまった!」
「貴方は喋っていないでしょう。会話をしたのは私です」
「近かった!」
「無視ですか。ああ、そうですね。近かったですね。貴方は壁にぴったり背中をくっつけていましたけど。同じ室内にいたんですから近くないわけではないでしょう。……生まれたばかりの頃は同じベッドに寝かされていたのに」
「うわー雪男だー生雪男だー。うわー」
「落ち着いてください」
 メフィストは本日何度目かになる溜息を吐いて左右の足を組み替える。
「まあこれくらいの接近なら大丈夫でしょう。久々に弟くんを間近に見たようですが、元気そうで何よりでしたね?」
「あ、うん」
 弟関連の話を振られると燐はいくらか平常の己を取り戻したようで静かに頷いた。
 ただし未だしゃがんだままの体勢で燐は先程の弟の様子を思い出しながら「でもよー」と続ける。
「あいつ、なんか……なんつーか」
「騎士團に忠誠を誓うのは形だけ。悪魔を祓うのは忠誠心ゆえではなく彼本人が悪魔を嫌っているから。私のことも上司とは認識しているでしょうが好いてはいないでしょう。でもこの場で真実を口にするほど奥村雪男は愚かではないということです」
「あ、やっぱそうなんだ」
 己が言葉にできなかった部分をスラスラと言い当てたメフィストに感心しつつ燐は閉じられた扉を見つめる。
 “悪魔”である兄を持たない雪男は物心つく前から自分を怖がらせてきた悪魔を快く思っていない。ゆえに多くの祓魔師達と同じく、悪魔とは憎むべきものであり祓うべきものであり情けを掛けてやる必要など無い敵だと認識している。
 燐は雪男が祓魔師の道を選んだ理由を詳しく知っているわけではないが、先程の弟の様子を見てその辺が理由になっているのだろうと思った。
「雪男の奴、悪魔が嫌いなんだな」
「ええ。彼は悪魔が嫌いなんでしょうね」
「俺が悪魔だって知ったら嫌っちまうのかな」
「嫌ってしまうでしょうね」
 オウム返しのようなメフィストの応えを聞いて燐は立ち上がった。「そっか」と小さな呟きを落としながら浮かべた表情は―――
「……どうして笑っているのですか?」
 メフィストの問いに燐は青い双眸を眇める。
「そりゃあ嬉しいからに決まってるだろ?」

 俺の存在を知らないままでいて。気にしないで。それが無理なら嫌っていてよ。

「どうせ好きになってもらっても、俺はあいつを悲しませることしかできないんだから」







2011.10.30 pixivにて初出

毎度毎度、燐が不幸な幸せ満喫中で申し訳ないです。