「生まれた日ですら検査検査検査……。何度確認したって結果は同じなのに」
 十二月二十七日、早朝。少年は簡易キットの試薬の中に己の血液を一滴落としながら呟いた。溜息と共に吐き出されたその言葉には嘲りと諦めの両方が含まれている。
(だって魔神の力に覚醒してしまえば、人間である肉体は耐えきれずに燃え尽きてしまう)
 話に聞く、己の兄のように。
 少年―――奥村雪男はくっと喉の奥を鳴らして笑った。
 兄、奥村燐は魔神の力を継いで生まれてきたために幼くして死んでしまった。青い炎に呑まれ、塵すら残らずに燃え尽きたのだと聞いている。
 だから集合墓地にある小さな十字架の下に兄の亡骸は無いし、生まれてすぐ死んだために写真や思い出話の一つもない。当然ながら同時に生まれた雪男の中には記憶もない。しかしただ一つだけ雪男は兄のことを知っている。―――魔神の力を継いでそれが目覚めれば、人間の肉体など耐えきれずにこの世から消えてしまうのだ、と。
 よって、雪男にとってこの毎日の検査は無駄以外の何物でもなかった。己が悪魔の力に目覚めれば、ヴァチカンが恐れている悪魔としての行動を起こす前に奥村雪男は死ぬはずなのだから。
 愚かな大人達の安心のためだけに日々の検査を繰り返す雪男は今日も陰性という結果を示した検査キットを片付けて溜息をもう一つ。
 もし燐が魔神の炎を継いだまま生きていれば、雪男もこの検査に納得していたかもしれない。
 もし燐が魔神の炎を継いだまま生きていて、しかも雪男の傍に兄として居続けたならば、その存在が雪男にとって憧れであり守るべき存在であったならば、雪男は「兄さんの方が辛い運命を背負わされているんだから」と検査の煩わしさなど気にも留めなかったかもしれない。
 しかし今ここに奥村燐の姿はなく、奥村雪男は愛すべき片割れを知らぬままたった一人で立っていた。



□■□



「ハッピーバースデー、雪男」
 午前七時を告げる目覚まし時計を止めて開口一番、燐は寝起きの掠れ声で囁く。
 昨夜は日付が余裕で変わる頃まで任務に当たり、今日もまた夕方から一つ任された仕事がある。ゆえに普段ならば眉間に皺を寄せ盛大な顰めっ面で迎える朝であるはずなのだが、この日だけは、十二月二十七日だけは特別だった。
 今日は燐が生まれた日。つまり燐の大事な大事な、愛しい片割れが生まれた日だ。
 別れてから十五年、顔すらまともに見られぬまま過ごしてきたが、何度繰り返してもこの日だけは特別であり何でもできそうな気がしている。
 しかも今日の任務は――春先の霊(ゴースト)退治の時と同じく――雪男に割り振られそうになっていたのを半ば無理矢理に燐が奪い取ったものなので、面倒くさいと思うどころかやる気が湧いてくるぐらいだった。
「雪男だって誕生日くらいは家でゆっくりしたいもんなー」
 そんな理由でメフィストにメンバーを変更させた燐である。
 何せ雪男には彼の誕生日を祝ってくれる“家族”がいる。血は繋がっていないが父親と、修道院の皆と、あときっと友達や同僚など沢山の人々が。そんな素敵な日を任務で潰したくない。
 ベッドから起き上がり、燐は伸びをしながら部屋を見回した。いくら掃除をしても薄汚れた感が拭えない、二人用のその部屋は記憶にある“あの部屋”と同じ―――。ある程度身体が成長した頃から燐が住んでいるのは、かつて己が高校生活を送った正十字学園高等部男子寮旧館の602号室だった。
 しかし今の602号室には同居相手がいない。この古い建物を燐はたった一人で使っていた。
 布団すら置かれていない部屋の反対側のベッドを一瞥し、少しだけ眉尻を下げる。しかしそんな表情は一瞬だけで、燐は両手で頬をパチンと叩くと、気合いを入れるように「よしっ」と声を上げた。
「今日は任務の前に雪男のためのケーキ作ってやるんだからなっ!」
 これまでの十四年間はただ遠くから小さな声でおめでとうと言うくらいしかできなかった。しかし今年は獅郎が燐にこう提案してきたのである。雪男の誕生日を祝いたいならケーキでも作ってみたらどうか、と。燐の料理の腕前を知っている獅郎が、燐の作るケーキならどこかの店で買ってきたと告げても疑われないだろうと判断したらしい。
 雪男の誕生日を祝いたいと思っていた燐はその提案に食いついた。しかもケーキどころか二十七日の夕食に出す総菜類も手がけると言って翌日から準備を始めたのだった。
 日持ちのする物は任務の合間に作り、今日は残りの料理とメインのケーキを作る。南十字男子修道院における奥村兄弟の誕生日は日付が近いクリスマスと一緒にまとめて祝われていたので、どうせなら盛大に祝ってやろうと思いながら燐は今日やることを頭の中で整理し始めた。
「ケーキはやっぱ真っ白い生クリームのやつだよな。雪男もブッシュナントカよりそっち系の方が好きだったはずだし……」
 十五年ぶりに弟のことを思って作る料理は行程を考えるだけでもわくわくする。本来なら昨夜の任務で削った睡眠時間を補給するために昼過ぎまで寝ている燐だが、この大事なイベントを前にして眠気など容易く吹き飛んでしまっていた。



□■□



「ハッピーバースデー雪男!」
「わあっ……! 今日は豪華だね」
「そりゃお前の誕生日だからな」
「ありがとう。でもいつもより凄くない?」
「ま、今回は特別だ」
 詳細を語らずそう答えた養父に雪男は首を傾げながらも、テーブルの上の大きなケーキや自分の好きな物ばかりで構成された料理の数々に頬を緩ませた。
 毎年この日だけは夕食の手伝いをしなくて良いと雪男は養父を筆頭として修道院の皆から言われている。それは考えるまでもなく雪男の誕生日を祝うためで、雪男本人もよく解っていたからこそ胸を弾ませながら食堂に呼ばれるのを待っていた。中学生に上がる頃から照れくさいと思うようにもなっていたが、やはり祝われるというのは嬉しいものだ。が、今回は年一回の行事が更に輪をかけてグレードアップしている。
(特別って何だろう。フェレス卿が気まぐれを起こしてカンパでもしてくれたのかな)
 それくらいしか思いつかない。
「ほら、雪男。そんなトコで突っ立ってねえで座れ! そして存分に味わえ!!」
「うん。いただきます」
 この齢になるとケーキにロウソクを立てて部屋を暗くして……と言ったことは流石に恥ずかしいのでやめてくれと神父達にあらかじめ牽制はしている。
 ケーキは最後に食べるつもりで、席に着いた雪男はテーブルの上の料理に手を伸ばした。
「……おいしい」
 おそらく今まで食べた中で一番。
 一口食べただけで雪男は目を瞠り料理を凝視する。
 男所帯の修道院は当番制で食事を作っているが、それは特別美味くもなく、不味くもなく。ごくごく普通の味だ。団欒の中で「今日はこれが美味しいね」と軽く笑いあえるようなレベルである。
 しかし目の前に並んだ料理達は違う。プロが作ったような、けれども万人に美味しいと言わせるためではなく雪男の舌に合わせるための微調整まで施されたような“美味しさ”だった。次々に料理を口に運んで、ただしゆっくりと味わえば、どれもこれも全て自分の好みに寸分の狂いもなく合っている。
(本当に僕のためだけに作られたみたいだ)
 そんなはずはないと解っているのに、そう思わずにはいられない。一口噛みしめる度に今朝の鬱屈した気分が解れていくようで、雪男は料理の効果に「凄いな」と純粋に感心していた。
「ねえ、神父さん。今日のこれって」
「知り合いの“料理人”に作ってもらったんだ。いつかお前にも紹介してやりたいんだが……」
「その人って忙しいの? じゃあ無理に会いたいなんて言えないか」
 言葉を濁す養父から事情を察して雪男は少し残念に思いながらそう告げる。
「でも僕、こんなに美味しい料理食べたこと無かったから……ありがとうございますって伝えといてくれる?」
「勿論だ。向こうも喜ぶ」
 ニカッと笑う養父に雪男も穏やかに笑い返した。
 朝のうちは誕生日なのに随分と最悪な気分だなどとも思っていたが、今は全くの逆だ。修道院の皆からは「おめでとう」と祝われ、料理は凄く美味しい。きっとこの真っ白なケーキも想像以上のものに違いないと期待しながら、雪男は眼鏡の奥で緑がかった青い双眸を細める。
(今日は任務もなくてゆっくり過ごせたし……。うん、なんだか良い日だったな)
 そう胸中で呟き、また一口、料理を口に運んだ。



□■□



「雪男はもうケーキ食ってくれたかなぁ」
 小さな声で独りごちながら燐は青い双眸を緩ませる。
 右手に握るのは抜き身の日本刀。左手にはその鞘。己の悪魔の心臓を封じた倶利伽羅は相変わらず赤い袋に入れて担げたまま、燐は普段の戦闘に用いている梵字が刻まれた刀を今夜も構えていた。
 青い視線が見据える先に群を成しているのは、今ではもう製造が禁止されている屍番犬である。成人した人間と同じくらいの大きさのそれをどこかの馬鹿が大量に作ったは良いが、本人は彼らを制御しきれずに喰われてしまったらしい。そして主人を失った屍番犬達は己が生まれた研究所の周囲に群を成して近付いた生き物を片っ端から襲うようになった。
 燐が今夜ここに赴いたのはこの目の前の屍番犬を全て駆除するためである。元は奥村雪男を含めた複数の祓魔師でチームを組んで行う種類の任務だったが、燐が一人でも対処できるものでもあった。
 ただし報告されていた個体数がかなりの数だったため、任務を割り振るメフィストから今回ばかりは他人を連れていってはどうかと言われたのだが……。メフィストの言う“他人”、つまり燐の生存と正体を知っており燐のサポートをしてくれる祓魔師は一人しかいない。そしてその一人は、本日、こんな任務に煩わされるわけにはいかないのだと燐は思っている。ゆえに燐はメフィストの心配に対して首を横に振った。
「ジジィは雪男を祝わなきゃいけねえんだっつーの」
 同意する相手もいない場で燐は「なあ?」と笑う。足場を均すようにザッとブーツの底を滑らせれば、その動きにつられて首から下げたロザリオが揺れた。
 鈍い輝きを放つ銀色の小さな十字架の首飾りは今日の昼間、燐が住む男子寮を訪れた藤本獅郎から誕生日プレゼントとして貰ったものだ。
 数週間前から獅郎に何が欲しいか何度も訊かれていた燐は、しかし訊かれる度に何もいらないと首を横に振っていた。なぜならこうやって獅郎がいてくれるだけで燐は救われてしまっているのだから。それに加えて雪男は未だ兄の存在を知らぬまま健やかに育っている。これ以上何を望めばいいのか分からない。
 燐が答える度に獅郎は少しだけ寂しそうな顔をして「でも何か、何でもいいから考えとけよ」と言って去ってしまう。が、燐は本当にもう何もいらなかった。今の状態でも貰いすぎだと思っていたほどである。
 そして誕生日の前日、獅郎の問いかけに燐は再び不要と答えた。すると獅郎は「わかった」と返したので、てっきり納得してくれたのだとばかり思っていたのだが、どうやらその考えは甘かったらしい。今日の昼過ぎになって雪男を祝うためのケーキやら料理やらを取りに来たかの養父はニコニコと笑いながら燐にこのロザリオを押しつけたのだ。しかも受け取らないなら捨てると言って。ならば受け取るしかあるまい。
 ただし受け取った時の燐の表情は本人が意識せずとも嬉しそうに微笑んでいたのであるが。加えて実は雪男とお揃いなのだと言われてしまえば、もう言うに及ばず。
 ロザリオはコートの金具に当たってチャリチャリと小さな音を奏でる。その音を耳にする度、燐は緩みそうになる口元をきゅっと引き締めた。何はともあれ、今は仕事中なのだから。
 燐の姿を認めた屍番犬達は取り囲むように周囲へと展開していく。時折、威嚇か警戒か分からない耳障りな声を上げるが、それで竦み上がるほど燐は悪魔払いの素人ではない。
 そしてある時、群の展開が済んだのか、それとも我慢しきれなくなったのか、屍番犬達が一斉に飛びかかってきた。
 燐は一匹一匹の動きを正確に捉えながらそれを躱し、隙を突いて刃を閃かせる。青い炎と比べるわけにはいかないが、刀身に刻まれた梵字の効果も活かしながら燐は生命力の強い屍番犬を次々に地面へと沈めていった。
 ただし倒せども倒せども、まるで補給でもされているんじゃないかと思えるくらい数が多く終わりが見えない。
 けれど。
「はっ」
 短く息を吐き出し、燐は頬に飛んだ屍番犬の体液を袖口で拭う。その顔に諦めや恐れは無い。
 理由は単純明快。

「今日は特別な日なんだからな」

 ニッと口の端を持ち上げて燐は地面を蹴る。
 十二月二十七日の夜はまだもう少し続きそうだった。







2011.10.19 pixivにて初出

閑話と言うか、双子の誕生日を順に追ってみました風のお話でした。
燐が傍にいないと雪男は自分の血とか毎日の検査のこととか物凄く面倒で嫌なものだと感じていそうだなぁと妄想。神父さんも重要な位置を占めているでしょうが、やっぱり雪男にとって世界にたった一人しかいない血を分けた片割れという存在はあまりにも大きいんじゃないでしょうか。だから燐がいないと雪男が歪む。