カツン、カツンと微かに音を立てながら石の階段を下りて行く。本来ならば先程通った門もこの先に待ち構えている扉の前にも見張りの人間がいるはずなのだが、今は視察に訪れた聖騎士への対応のため全員席を外していた。
 いなくなった人間の代わりに一帯を監視しているのは地下であるこの空間の上―――正十字学園、そこの理事長を務める男が設置した監視システムである。そして理事長メフィスト・フェレスは今回の作戦において“こちら”の味方だった。
 そのメフィストから念のためと渡された、纏った者の姿を他者の目から隠すことができる迷彩貫頭衣(めいさいポンチョ)の裾を揺らし、侵入者は先へと歩む。
 奥へ奥へと進み、そうして辿り着いたのは地下空間の一番奥――― その位置を示す通りの名称を持つ場所『最深部』。
 ここは危険な物や貴重な物を封印もしくは保管する場所であるが、数ある貴重品には目もくれず、侵入者は幾重にも張られた結界の中央に置かれた丸底フラスコのような容器に視線を向けた。
 ガラス容器の中では黒い目玉のような物体が不気味に浮遊している。これこそが祓魔師の中でも知る者が限られている品物の一つ、“不浄王の左目”だ。京都出張所の『深部』に同じく封印されている右目と合わさることでより強毒な新型の瘴気が生み出されるとも言われており、ここ『最深部』にて厳重に封じられてきた一品。ちなみに実はメフィスト・フェレス個人の所有物でもあるのだが、物が物なだけにメフィスト本人でもそう容易く持ち出せる物ではなかった。
「まあ、あいつもこんな物そこらへんに置いといたら、ヴァチカンからまたごちゃごちゃ言われるだろうしな」
 そもそも『最深部』に保管したのも上の煩わしさを除くためだったのかもしれない、と侵入者は片付けた。何せ侵入者本人も――死ぬまでの二年間程とは言え――正十字騎士團の上層部には随分と煩わされてきた経験があるので。
 笑って過ごせるレベルのものではなかったが侵入者はあえて小さく苦笑を浮かべてそれを流し、本来の作業に意識を向ける。
「さてさて。ジジィが時間稼ぎしてくれてる間に終わらせねえと」
 封印の力は強力だが、その解除方法は必死に頭に叩き込んできた。普段は自らを馬鹿と称するけれども、それでもやらなければいけない時がある。そして人間、やればできるものなのだ。生憎、侵入者こと奥村燐自身は明確な『人間』ではないけれど。
 ともあれ。燐は素早く、ただし丁寧に一つずつ封印を解いていく。猶予は獅郎が『最深部』の職員をこの部屋の外に留めておいてくれている間のみ。彼が職員達に案内されてここに降りてくるまでが勝負だ。
 幾重にも重なった封印を解くうちに燐の額には汗が浮かび、頬を滑り落ちて貫頭衣の襟元を僅かに湿らせる。だがそんな感触にも気付くことなく、燐は指を動かし続けた。
 そして―――
「よっしゃ、成功」
 一番内側の封印も解き、フラスコのようなガラス容器を両手で持つ。容器の中央に浮かぶ目玉にきっと意識など無いだろうが、それでも視線が合ったような気がして燐は口の端を持ち上げる。
「悪いな。お前に復活されちまうと滅茶苦茶厄介なんだよ」
 そうして容器の蓋を開けぬまま、“不浄王の左目”に意識を集中させた。
 要領はずっと昔にやった修行と同じ。三本立てた蝋燭のうち、両端の二つにだけ炎を灯す。その対象が今度は容器の中の一個というわけだ。
 『腐の王』の眷属は炎に弱い。しかも燐の炎はそんじょそこらの悪魔の炎ではなく、正真正銘、虚無界の神と同じ力だ。八候王の更に下に属する悪魔が到底抗えるはずも無かった。
 結果、燐が意識を集中してすぐに容器の中の目玉は青い炎に包まれた。中に充満していた瘴気まで共に焼き尽くされ、残ったのは僅かばかりの無害な空気だけである。
 それを確認したところでようやく燐は容器の口を開ける。そして懐から取り出した“不浄王の左目”のダミーを代わりに中へと押し込み、最初と同じように封印を施していった。
 燐の記憶が正しければ、一年後の夏にこの目玉は再び封印を解かれることになる。京都の地に秘された右目共々奪取され、不浄王と呼ばれる巨大な悪魔の復活に使われるのだ。あの時はなんとか退けることができたが、できればもうあのような危険な橋は渡りたくないと燐は思う。取り返しのつかない被害というのは避けられたが、それでも沢山の人が傷を負ったことに違いはないのだから。
「……雪男にも本当に辛い思いをさせちまったしな」
 復活した不浄王の討伐に加えて、燐の処刑が決まったり、事件の首謀者である藤堂三郎太から大きな揺さ振りを受けたり。今思えば、あまりにも大きすぎる負担を大事な弟に強いてしまっていた。
 弟はどれほど悩んだだろう。どれほど苦しんだだろう。
 今度こそそんな辛い思いをさせてたまるかと、燐はダミーの眼球を眺めながら心に誓う。
 燐のことで雪男が心を痛めることなど無いように。燐という存在に縛られず、自由に生きていけるように。悲しい目をしたまま銃口を向けることなど二度と無いように。
「だって俺、あいつの兄ちゃんだもん」
 最後にそう呟いて燐は『最深部』を出て行く。
 次は京都の“右目”、そして“本体”だ。



□■□



 祓魔師であっても詳細を知る者が少ない悪魔―――不浄王。百五十年前、京都で疫病を蔓延らせた上級悪魔であり、その犠牲者は四万人以上と言われている。しかし不角という僧侶により討伐され、その証拠として“右目”と“左目”が抜き取られた。左目は正十字学園の『最深部』に、右目は明王陀羅尼宗が管轄する京都出張所の『深部』に保管されており、二つが合わさることで強毒な瘴気が発生するとされている。
 しかしその話には明かされていない情報があった。
「明陀の寺に不浄王の本体が封印されている、か」
 そして本体と両目が合わさることで不浄王は復活する。
 今年に入ってすぐ、燐が覚えている限り語ってくれた話を反芻するように口の中で呟きつつ、藤本獅郎は新幹線のシートに身を預けたまま眠る少年へと視線を向けた。
 閉じられた瞼の向こうに青色を隠す少年―――奥村燐の“これまで”について獅郎が燐本人の口から直接話を聞いたのは十二月も終わりに近付いたある日のことである。
 己の誕生日とされているその日。燐は、自分は一度死んだのだと語った。
 十五で祓魔師になる決意をし、願ったとおり祓魔師にはなったが、十七でその生涯に幕を下ろしてしまったのだと。
(俺が死んで、雪男と一緒に正十字学園に通って、そんで祓魔師になった。でも青い炎が暴走して雪男に自分を撃たせちまって……こいつはそれを酷く後悔してやがる)
 だから何の因果か“戻って”来てしまった今の人生では誰も悲しませたくない。雪男に二度と悲痛な声を上げさせたくない。叶うならば自分の所為で起きてしまった悲劇を全て未然に防ぎたい。―――燐は祈るようにそう獅郎に明かした。
 生後間も無く死を装って身を隠したのもそのためだ。弟を筆頭とする大事な者達が燐に関することで傷つくことが無いように。そのためだけに燐は己が得るはずだった家族も友人も全て諦める決意をした。
 今回の暗躍も獅郎が燐の生存に気付かなければ彼一人で実行に移していたのだろう。
 燐が一度目の人生で経験した不浄王の復活。それにより多くの者が傷付いたのだと言う。だから今度はその不浄王が復活する前にことを終わらせる。正十字の左目も、京都の右目と本体も。全て青い炎で焼き払い、この件の首謀者となる藤堂三郎太が動き出す前にその手段を絶ってしまおうというのが今回の計画だった。
「俺がお前の近くにいられて良かったよ。でなきゃ危うくお前を一人で化け物退治に行かせちまうところだった」
 獅郎は己の隣で安心したように眠っている燐の前髪を払いながら、ふっと小さな笑みを漏らす。
 今の自分は辛い道を歩むと決めたこの子の傍らで崩れ落ちそうなその身を支えることができる。本当はもっと沢山の人間が燐の支えになってくれれば良いのだが、それは燐自身が望んでいないので強くは望めなかった。獅郎とてこうして燐の隣に立てるのは、燐の最期を己が貰うと本人に告げたからでしかない。そんな自分が悲しみを知る燐に「頼る人を増やせ」―――つまり「燐に何かあった時に嘆く人を増やせ」と直接言うことなどできるはずもないだろう。
(だからせめて、俺だけは)
 燐のために何でもしてやりたいと思う。聖騎士としての名が有用ならばそれを、祓魔の能力が有用ならばそれを惜しげもなく使ってみせよう。そして愛情が欲しいならば父親として溢れんばかりの愛を燐の前に差し出そう。そうやって少しでも青い目が喜びに潤むなら、これ以上のことはない。
 雪男と同じくもう一人の大切な我が子を見つめて獅郎は赤い双眸を眇める。愛しさと幾許かの痛みを込めて。
「お前が雪男を守るように、俺もお前を守ってやるからな」
 弟からの愛を受けることができない代わりとしても。


「って一体どこ行ったんだウチの子はぁぁぁぁあああああ!!!!」
 新幹線に揺られること約二時間。
 京都駅に到着後、まずは勝呂達磨の妻が女将を務める旅館・虎屋に向かおうとしていた二人だったが、父親が少し目を離した隙に息子は見事迷子になってしまっていた。



□■□



「うお、やべ。ここどこだ」
 十四歳の身体では初めてだが、記憶の上ではかつて訪れたことのある京都の地に懐かしさが込み上げてそこに好奇心も加わった挙句、気付いた時にはもう燐は自分がどこにいるのか解らなくなっていた。
 きっとまず最初に土産物屋の前で足を止めたのがいけなかったのだ。先を行く獅郎にすぐ追いつくつもりでちょっと店を冷やかしていたら、ついついこの地での思い出に浸ってしまい、あれもこれもあそこもここも、と目移りして、この状態だ。
 また懐かしさの他に、獅郎と一緒で浮かれていたのも大きな要因だろう。
 これから計画していることはとても重大な一件に関わる行為である。ゆえに気を引き締めて取り掛からねばならないと、不浄王復活を経験した燐自身が最も理解しているはずなのだが、それでも服の下で黒い尻尾が今にも揺れそうになっているのは事実だった。
 ただしこの瞬間において、尻尾ごと浮き足立っていた燐の気分は獅郎とはぐれてしまったことでシュンと降下し続けていた。
「どこだよ、ジジィ……」
 キョロキョロと辺りを見回すものの、それらしき人影は無い。一応目的地は決まっており、またそこがこの地では有名な旅館であったため、最終的には道行く誰かに聞いて辿り着くというのも出来なくはないのだが……。

「こないな所でキョロキョロしてどないしたんや? お父(とん)やお母(かん)とはぐれてしもたんか?」

 獅郎を捜してせわしなく首を動かしていた燐は穏やかな問いかけを受けてそちらに振り返った。
 燐よりも頭一個程度上にある双眸は、青い瞳が見つめ返すとふっと緩んで柔和な微笑を作り出す。きっと女子供はこのような笑みに安心感を覚え、容易く心を許してしまうのだろう。そう思わせるものだ。
 しかし燐は相手の表情や雰囲気ではなく、その顔の造作や喋り方が記憶の一端に引っかかり大きく目を見開いた。
(この人、確か)
 その身に纏うのは仏教系祓魔師の團服ではなく、夏らしい私服姿であるけども。
「……志摩の、兄ちゃん?」
「え?」
 ぼそりと呟いた燐の声に反応し、優しげな青年―――燐の記憶が確かならば志摩家の次男にして跡取り、志摩柔造が驚いたように燐を凝視する。
「ぼく、俺んこと知ってるんか」
「あっ、えっと、その……」
 しまった、と思いながら、燐はどう弁解すべきか迷ってしどろもどろになる。
 咄嗟に祓魔塾時代のクラスメイト・志摩廉造の兄の登場に反応してしまったが、これは本当に失策だった。昔はさておき、今この瞬間において燐と志摩は友人どころか知り合いですらない。また今後も関わり合いになるつもりはなく、したがって志摩の兄である柔造ともこうして言葉を交わす機会など得られるはずも無かったのに。
(しかも俺、顔隠してねえっ!)
 言葉を交わすならばフードを被って顔を隠して。そうしてやっと任務遂行の上で必要最低限な会話をする。原則として祓魔師に姿を見せず働く燐にはそれが妥協点だった。
(ど、ど、どうしよ……!?)
「ぼく?」
 ガチガチに固まった燐を前に柔造が小首を傾げる。自分は何かまずいことを言ってしまっただろうか、と。
「確かに俺は志摩家の人間やけど、ぼくは……年格好から見たら廉造の知り合い辺りやろか」
「っ、ちが」
「違うん?」
 こくこくと燐は何度も頭を縦に動かした。
「れんぞーって奴は知らねえ」
 ここで志摩廉造の知人だと思われ志摩本人やこの次男との間に縁ができてしまうのを避けたい一心で燐は否定を重ねる。親しくした記憶がある分、自分でそれを否定してしまうのは酷く胸が痛んだが、彼らがいずれ燐のために傷つくこととその痛みを天秤にかけてしまえば、どちらが勝つかなど火を見るよりも明らかだった。
 できれば「志摩の兄ちゃん」という呟きを忘れて立ち去ってはくれまいか。燐は視線を地面に落としながらそう思う。
 今回やろうとしていることに柔造を始めとする志摩家の人間を巻き込む予定はなく、協力者は明陀の最大級の秘密をただ一人で守っている勝呂達磨だけだった。その達磨とすら燐は直接言葉を交わすつもりはない。獅郎が話を通し、燐はその後ろで顔を隠して必要な時に炎を出すだけの予定である。
 ゆえに柔造はここで燐のことなど頭の中から放り出して日常に戻ればいいのだ。青い炎を宿すこの身に関わっても良いことなどない。目の前の青年に関して“志摩廉造の兄”で“かつて(少し)優しくしてくれた人”という記憶もあるだけに、燐は余計に強くそう思った。
「……ほな、まぁ俺んことはどうでもええわ。俺もご近所さんの間やったら『子供好きの志摩家の兄ちゃん』でちょぉ有名やったりするしな。自分で言うのもアレやけど」
 苦く笑って柔造は続ける。
「そんで、ぼくは? やっぱり親御さんとはぐれてしもたんか?」
 質問が最初に戻ってきた。
 燐は再び柔造を見上げて言葉を詰まらせる。親御さん―――藤本獅郎から離れて迷子になってしまったのは事実だが、それを彼に言って良いものだろうか。目的地は彼もよく知る旅館・虎屋であるため、言えば案内してくれると思う。しかしそれでは駄目だろう。
 と、その時だった。燐の携帯電話が着信を告げたのは。
「……ジジィ?」
 獅郎からの電話だ。
 燐は柔造を一瞥した後、通話ボタンを押して携帯電話を耳に当てた。
「ジジ『燐! お前今どこにいるんだっ!?』
「ご、ごめん」
 声だけで怒っている……と言うよりも、心配しているのが伝わってきて燐は反射的に謝罪を口にする。
「あと場所だけどちょっと分かんねえ。なんか迷った」
『ッ、怪我はしてないよな? 厄介事に巻き込まれたり、変な所に入り込んだりもしてねえよな?』
「それは大丈夫だって。今もなんか土産物とかいっぱいあるデケェ通りにいるし」
『それならまだ安心……なのか?』
「うん。ヘーキだって。どうせ行き先は虎屋だろ? 誰かに聞いてそこまで行くから、ジジィは先に行っといてくれよ」
『……わかった。でも何かあったらすぐ電話するんだぞ』
「うん」
 そう言って会話を終了させる。そして携帯電話を仕舞い再び柔造に顔を向けると、
(しまった。俺の馬鹿)
 柔造が心得たようにニコリと微笑んでいた。
 自分が電話で告げた台詞を思い出し、燐は頭を抱えそうになる。
「ほぉか。ぼく、虎屋に用があったんやなぁ。ちょうどエエ。兄ちゃん虎屋の女将さんとは知り合いやから連れてったる。ぼくのお父もそこで待っとるんやろ?」
 今の会話や携帯電話から漏れ聞こえた声で相手が年上の男性―――父親だと推測したのだろう。
「へ、いや……別に」
「せやけど人に聞かな場所分からへんのやろ? 遠慮せんとこの柔造さんに任せとき。行くでー」
「あっ、ちょ、ちょっと!」
 善意の塊で柔造は燐の腕を引き歩き出す。
 久々に触れた獅郎以外の温もりに燐は吃驚しつつ、それを強く振り払えずにきゅっと唇を噛み締めた。


 柔造に手を引かれたまま燐が虎屋まで辿り着くと、既に到着していた獅郎が玄関前で心配そうに腕を組んで待っていた。獅郎は義理の息子が他人に手を引かれているその姿に驚き、また柔造も自分が手を引いてきた少年の父親が現聖騎士と知って目を見開く。
「ぼくのお父って藤本獅郎さんやったんか……」
「血は繋がってねえけどな」
 獅郎が柔造から燐を引き取り、その肩に手を置きながら答える。
「ここまで連れてきてくれて助かった。ほら、お前も礼を」
「あ、ありがとうございました」
「ええよええよ」
 燐がぺこりと頭を下げると、柔造は再び微笑を浮かべて手をひらひらさせる。
「また困ったことがあったら俺に言うてや。……ほな、藤本先生もゆっくりしてってください」
 そう告げ、柔造は獅郎と燐に背を向ける。
 内心で「藤本聖騎士が育ててる秘蔵っ子がおるって話は聞いたことあるけど、それがあの子なんかな?」と勘違いしながら。







2011.09.06 pixivにて初出

そうだ、京都に行こう。ではなく、不浄王復活フラグをさっさと折ってしまおう作戦スタートです。
京都への移動手段は原作に倣って新幹線にさせて頂きました。何だかんだ言いつつも藤燐親子は半分くらい旅行気分ですよ、きっと(笑)