いわゆる深夜と呼ばれる時間帯。夜空には丸い月が浮かんでいる。
 桜の花弁が舞い散る中、燐は視線の先にある大きな建物を見据えて「よしっ」と軽く気合いを入れた。
 その建物は大人の身長程度の高さがある壁に囲われ、広い土地を有している。出入り口は南北に一つずつ設けられた鋼鉄製の門で、今はしっかりと閉ざされていた。
 建物自体の壁は白を基調としており、その形と相まって四角い箱のようにも見える。これが日中ならばまだあの数多く均等に設けられている窓から“子供”が顔を出し、違った印象も持てただろうが……。
「なんか学校っつーより収容所みたいだな」
 ぼそりと独りごちる。
 燐が見据える先には白くて四角い大きな建物。そしてそれを囲う壁の南北に設けられた門の横には、燐が今回初めて耳にするとある中学校の名前が刻まれていた。


 発端は三日前に遡る。
「雪男ももう中三かぁ」
 正十字学園の理事長室を訪ねていた燐がぽつりと呟いた。その手に持っているのは執務机に置かれていた一枚の紙切れ。理事長のメフィストへと届けられた中等部の年間予定表である。
「そういや燐は学校に行ってなかったのか」
「うん。基本的に修行か任務」
 背後からこちらの肩に顎を乗せるような形で覗き込んできた藤本獅郎に燐はこくりと頷いた。
 この二人が同時にメフィストの部屋を訪ねたのは、実は偶然でも何でもない。まだ少々先になるが、夏に予定している特別任務の打ち合わせをするために訪れていた。目的地は京都。メンバーが燐と獅郎の二人のみだというのは既に決定事項である。
 ともあれ、燐にとっては三ヶ月以上先のことより目先のことだ。
「正十字学園(こっち)の始業式は明日なんだな」
「ええ。ですが私がやることもありませんし、特に何も変わりませんけどね」
 メフィストは肩を竦めて軽くそう答えた。
「そりゃまぁこんだけデカくて数の多い学校にいちいち理事長が顔なんて出してらんねーってのは解る。でもそもそもアンタがちゃんと理事長やってるってのが想像できねえ」
「あ、それ俺も思った。つかお前の机に教育者っぽい物が置かれてること自体、俺は驚愕だよ」
 燐に同意する形で獅郎までもがあっさりと告げる。「だよなー」と燐が告げると、メフィストはあからさまな態度で肩を落とし「この非公式親子め」と悪口かどうかも判らない単語で罵った。
「奥村くん。藤本と一緒で嬉しいのは解りますが、あまりはしゃぎすぎないでくださいね。特に夏の任務では」
「誰がはしゃいでるってんだよ! あと夏の方は言われなくても解ってるっつーの」
「ならば結構」
 プイと顔を背けた燐にメフィストは満足そうな声で呟いた。獅郎は燐の背後で苦笑を噛み殺しているらしい。視界の端に映る肩が僅かに震えている。
 ともあれ。正直なところ、養父と一緒に祓魔師の任務につくという前の人生では体験できなかったことに燐は浮かれていた。しかも目的地は京都だ。決して気楽な仕事ではないが――むしろ色々と大変だろうことは予想している――、服の外に出している尻尾はふよふよと楽しげに揺れていた。
 それを見て更に笑みを誘われたのかどうかは判らないが、メフィストが軽く咳払いをしてから口を開く。
「ああ、そうでした。藤本、今日来ていただいたついでで悪いのですが、これを貴方のもう一人の息子に届けてくれませんか」
「? 指令書か」
「三日後、そこの中学校でゴースト退治をしていただきたいんですよ。学校の方にはもう話を通してありますから、その晩だけはセキュリティも切れる手筈になっています」
「おう。渡しとく。でもこれ……」
 指令書に書かれた日付を見て獅郎が眉根を寄せた。メフィストが「何か不都合でも?」と問いかけると、燐の養父は「まぁあいつなら大丈夫だろうけど」と前置きして答える。
「次の日にな、雪男の学校で復習テストがあるんだよ。一・二年の」
 その言葉にメフィストではなく燐が反応した。
 養父の手の中にある指令書を覗き込んで「雪男、テストがあるのか」と確認する。
「春休み中にちゃんと勉強してたから平気だって、あいつも言うだろうがな」
「でも大事なテストだろ」
 すっかり見慣れてしまった形式の指令書に目を通しながら燐は呟く。そして任務に当たるメンバーの中に奥村雪男の名前を見つけ、養父と同じく眉根を寄せた。
「なあ、メフィスト。この日程、変えるわけには……」
「いきませんね。あちらの学校にも都合というものがありますから」
「……」
 その答えに黙り込む。
 前の人生でも今の人生でもまともに学校へは通っていなかった燐だが、弟は違う。雪男は真面目に学校に通って、祓魔師ではあるけれど医者になるという夢を今もその胸に抱いているはずだ。だから迫っているのが小テストだろうが復習テストだろうが定期テストだろうが、雪男の勉強の邪魔になるようなものはなるべく排除したいと燐は思う。
 そうして青い目が再びメフィストを捉えた。
「この指令、もう他のメンバーには連絡されてんのか」
「いいえ? これからしようと思っていたところですよ」
 燐が何を言いたいのか既に解っているのだろう。メフィストはニヤニヤと口元を歪ませながら答える。
 正面ではそんな感じであり、また背後では――こちらも燐の考えなどお見通しなようで――獅郎が淡い笑みで燐の後頭部を眺めていた。
「よし。じゃあ問題ねえな。その任務、俺が引き受ける」
「弟君の代わりとしてこの班に入りますか?」
「そりゃマズいだろ。俺一人で行くよ」
「言っておきますが、出没するゴーストは複数体確認されていますよ」
「ああ、そう書いてあったな。でも大丈夫だ」
 非公式で騎士團に属している燐がそう容易く人前に姿を見せるわけにはいかない。任務に当たる際も単独行動、もしくは陰からのサポートとなる。
 それが可能であるということが燐の実力を示しているのだと、メフィストが一番よく解っているはずだ。
 道化を真似た悪魔は「ふう」と一息つき、机の上で指を組んだ。
「よろしい。ならばこの一件は奥村くん、君に任せましょう。弟君も君のような兄を持って実に鼻が高いでしょうね」
「ばーか。雪男は俺のことなんか知らねえっての。な、ジジィ」
「……まあな」
 一拍置いて獅郎が答える。
 弟に存在を知られぬままそのサポートができて喜ぶもう一人の息子を眺める目は何となくもどかしそうだ。燐にもその理由は理解できていたが、だからと言ってこれ以上己が幸せを無理に求めるわけにもいかないと思っているので、養父のもどかしさを解消する手伝いはできそうになかった。
「わりぃ。ジジィ」
「なに謝ってやがる。お前は立派な兄ちゃんだよ」
「……うん」
 若干痛いくらいに頭を撫でられて燐は目を細める。
 そんな親子の様子にメフィストが呆れたような溜息を吐くのが聞こえたが、燐は気にせず「んじゃ、そういうことで」と笑いかけた。


「さっさとゴースト退治にとりかかるか」
 鉄の柵を軽々と乗り越えて音もなく敷地内に着地する燐。夜で人払いもされているとあって服の外に出している尻尾がしゅるりと揺れた。
 今回燐が祓うべき悪魔―――ゴーストはこの学校内で何体も確認されている。だがどうやら彼らを統率する一匹がいるらしく、それを退治すれば残りも一緒に対処できるとのことだった。無論、一匹ずつ順番に祓っていっても構わないのだが。
 また未だ人的被害は出ていないが、目撃証言と共に器物破損の報告もなされている。教室の扉が外れたり窓が割れたり、また生徒達が美術や技術家庭の授業で作った作品が砕かれていたり、といった具合に。
「他人が頑張って作ったモンを壊すなっつーの」
 人気のない暗い廊下を歩きながら燐は独りごちた。
 自分のことはともかく、弟がちょうど中学生ということもあって、そう呟く燐の口元は若干不機嫌そうに歪んでいる。しかもこの悪魔達の所為であわや雪男のテスト勉強に影響が出るところだったのだから、不機嫌度は更に増加だ。
「さて。今回のは日が暮れると結構簡単に出てくるって言ってたよなぁ…………って、早速か」
 真っ直ぐに伸びた廊下の突き当たりを白い何かが横切った。あそこは確かT字路になっていたはずだと出発前に確認した見取り図を思い出しながら、燐はすぐさま追いかける。
 T字路でキュッと靴を鳴らしながら直角に曲がれば、逃げるゴーストの後ろ姿が確認できた。まるで少し前の漫画のように足の部分が消えてゆらゆらと溶けたように揺れている。
「まず、一匹!」
 言うと同時に燐はダンッとひときわ大きな音を立てて床を蹴り、勢いをつけて倶利伽羅とは別の刀を振るった。刀身に刻まれた梵字の効果によりゴーストが悲鳴も上げずに祓われる。そして間髪おかずに、燐は背後に視線を向けぬまま刀をもう一度振るった。背後から燐の頭部に煉瓦らしき物をぶつけようとしていたもう一匹のゴーストがそれによって消え去る。
 ゴトン、と持ち主が消えたことで煉瓦がリノリウムの床に落ちる。夜目の利く燐はそれを眺めて溜息を一つ。
「これって人的被害になんのか?」
 未遂であるけども。
 ともあれゴースト達は早速燐を排除すべき敵と認識したらしい。そのまま全員向かってきてくれるなら楽だが、一番に祓うべき統率役の一匹に隠れられてしまうと厄介だ。
「下手に隠れられる前に見つけるか」
 そう呟いて歩き出す燐だったが―――
「……そこにいんのは誰だ」
 悪魔とは違う、人間の気配。それを感じて燐は少し先にある教室に目を留めた。暗がりではあるが念のため尻尾を服の下に隠し、また顔を隠すためにフードを被る。そうして燐はゆっくりと気配のする方へ歩きだした。
 燐の接近と共に気配がざわつく。恐怖と緊張を感じているらしい。となると、悪魔を祓いに来た別の祓魔師(またはそれに近いもの)ではないのだろう。
(そこにいるのはおそらく一般人。怖がらすのは得策じゃないってことか)
 胸中で呟き、燐は一度足を止めた。
「びっくりさせて悪かった。ここの生徒なら校門まで送り届けるから出て来てくれると嬉しい。俺は何もしないよ」
 なんとなく記憶にある講師時代の弟の姿を真似て穏やかな口調で告げる。
 教室の扉の向こうに隠れているらしき人物はまだ出てこない。しかし燐が数分程その場で立ったまま待っていると、やがてガラガラと音を立てながら教室の扉が横に開いた。
 そして奥から顔を出した、今の燐と同い年くらいの“少女”の顔に息を呑んだ。
「アンタ何者?」
 少女の方から燐の顔は確認できないだろうが、夜目の利く燐には少女の顔がはっきり確認できる。
 公家のよな特徴的な眉に白い面、つり上がった目は赤みを帯びており、まさに気の強そうな美人だ。そして燐はこの顔がもう少し成長した姿を知っている。
(ッ! ここって出雲の学校だったのかよ!?)
 この中学の制服を纏った神木出雲が強い視線で燐を睨みつけていた。彼女の背後には、これもまた燐にとって見覚えのある少女―――朴朔子が怯えた表情で隠れている。
 気配の主がどちらも自分の知る存在だったことに燐は心臓を跳ねさせた。だがその動揺を表に出すわけにはいかず、彼女らを安全に学校外へ出すため口を開く。
「俺はまあ、なんつーか掃除屋みたいなモン。つかお前らこそなんでこんな所にいるんだ? 危ないだろ」
「それは悪魔に――この場だと『ゴースト』かしら――に襲われるからって意味で?」
「……その辺の知識はもうあるんだな」
 ただのフィクションとしてのオカルトではない。悪魔という存在を知った上での出雲の言葉に燐は静かに答える。
「解ってるなら話は早い。あいつらは俺が今夜中に何とかするから、お前らはさっさと帰って寝ろ。なんかあった後じゃ遅いんだからな」
「いやよ」
「は?」
「だから、嫌って言ってるの」
 物分かり悪いわね、と毒づきながら出雲は続けた。
「あのゴースト達はあたしが祓う」
「どうやって……」
 まだ出雲は正十字学園の生徒ではなく、祓魔塾で手騎士としての才能が確認されたわけではない。つまり出雲にはかつて燐の記憶の中で彼女に従っていた白狐達がいないのだ。その状態で一体どうやって悪魔を祓うつもりなのか。
 燐がそんな心配をすると、出雲は心外だと言わんばかりに頬を膨らませ、スカートのポケットから何枚もの紙を取り出した。びっしりと文字が書かれた長方形のそれは呪術に使われるお札だ。
「あたしは神社の巫女の血統なの。だからこれで何とかするわ」
「でもお前、まだ『悪魔祓い(エクソシズム)』についてちゃんと勉強してないんじゃないか?」
 ならば不用意に力を使うのは得策ではない。もし今の時点で出雲にゴーストを祓うだけの力があったとしても、相手は自分達を消そうとする存在に牙を剥いてくる。経験の乏しい状態で自分に向かってくる敵に対処するのは大きな危険が伴うだろう。
 それに……
(後ろの朴がすっげぇ心配そうにしてんだよなぁ。これってやっぱ出雲にゃまだ悪魔を祓うだけの力が十分に備わってないってことじゃねえのか?)
 更に加えて、この時点での朴はまだ魔障を受けたことがなく悪魔が見えないはずだ。朴が悪魔を可視できるようになるのは祓魔塾に入って魔障の儀式を受けてから。中学三年生になったばかりの彼女にとってここは透明人間が物を動かしたり襲いかかってきたりするような、危険極まりない場所なのである。
 その朴を連れて、出雲は何故無茶をしようとしているのだろう。
「……あたしがやんなきゃいけないのよ」
「?」
 ぼそりと呟く出雲に燐が小首を傾げた。
 自分でも実力が足らないと理解した表情で、しかし出雲は続ける。
「あいつらはあたしが祓わなきゃいけないの! だってあいつらは……あいつらは、朴が頑張って描いた絵をビリビリに破いたのよ!?」
「出雲ちゃん、もうそのことはいいから……」
「よくない! だってあたし、朴が本当に一生懸命描いてたの知ってるもん! それを破くなんて許せない!!」
 だから絶対あたしが祓ってやる、と出雲は拳を握りしめた。
 まるで自分の一番の宝物が壊されてしまった時のように。他人からしてみれば“学生が描いたただの絵が破かれただけ”であっても、彼女にとって親友である朴の努力が無にされたというのはとてつもなく嫌なことなのだろう。
「……やっぱお前って良い奴だよなぁ」
「へ?」
「いや、なんでもない」
 フードで目元を隠したままにこりと笑って燐は出雲に近付く。
 身体の年齢は同じだが男女の成長の差の所為で赤い大きな目が燐を見上げる格好になった。だがそれにより表情を覗き込まれるよりも早く、燐は一瞬の首筋に手刀を打ち込み気絶させる。
「出雲ちゃん!?」
 崩れ落ちた親友の姿に朴が泣きそうな声で名を呼んだ。それを悪いと思いながら燐は左手で出雲を抱え、なるべく優しい声で「大丈夫だから」と告げる。
「このままだと、こいつ、本当に悪魔退治だーってはりきっちまうだろ。無茶はさせらんねえし、ちょっと悪いけど気絶させてもらった。ほら、学校の外まで送り届けてやるからお前も行くぞ」
 仕事用の刀を右手に持って朴にそう告げると燐は早速歩きだした。「ま、待って!」と朴が慌てて後を追う。
「あの……貴方は何者なんですか」
「俺? さっきも言ったけど掃除屋みたいなモンだよ。悪魔を相手にしてるから正確には祓魔師ってことになんのかな」
(称号は持ってないけど)
「祓魔師、ですか……。出雲ちゃんがなりたいって言ってるやつだよね、確か」
 後半は自分の中で確認するかのように。朴は小さく呟いて再び質問を重ねる。
「祓魔師になるには正十字学園に通えばいいんですよね?」
「正しくは正十字学園にある祓魔塾、な。高校自体は普通の学校だぜ」
「そうなんですか。出雲ちゃんがそこに通いたいって言ってました」
「ああ、こいつならいけるだろうな。お前も来るんだろ?」
 こくり、と朴の首が縦に動く。
「自信は……実はあんまり、というか全くないんですけど」
 でも、と続け、暗い廊下を燐と歩きながら朴はふわりとはにかんだ。
「出雲ちゃんの傍にいたいし」
「お前、出雲が大好きなんだなぁ」
「……!」
 答えた瞬間、驚いたように朴が燐を見る。
 燐としてはどうして朴がそんな驚いた顔をしているのか解らない。「どうした?」と問いかければ、朴は慌てて顔を逸らし、それでもぽつりぽつりと言葉を吐き出した。
「あの……そんなことを言われたのは、初めてだったから」
「そうなのか?」
 こくん、と朴の頭が動く。
「学校の皆は、“私が優しいから”出雲ちゃんの傍にいるんだって思ってるんです。違うのに。私は、出雲ちゃんが好きだから出雲ちゃんの傍にいるんです。親友、なんです。優しいからじゃない。出雲ちゃんがとても素敵な子、だから」
「……ああ、それは解る」
 朴の言葉を聞きながら燐は己が祓魔塾に通っていた時のことを思い出していた。
 神木出雲という少女は勝ち気で口も悪い方だったが、真っ直ぐな性格と周囲の意見や偏見に惑わされない自我をしっかりと持っている、とても魅力的な少女だった。燐がサタンの落胤であるとバレて村八分状態になっていた時も彼女は恐れた様子もなく燐に接してくれた。それが当時の燐の心をどれほど慰めたことか。
 “サタンの落胤”を塾の他の同期達が受け入れてくれるようになった後も彼女の態度は変わらず、燐は一生――短い一生ではあったが――出雲にある種の尊敬と好意を抱いていた。
「出雲は本当に良い奴だよな」
「……出雲ちゃんのお知り合いだったんですか?」
「いや。俺が一方的に知ってるだけ。でも“昔”、色々救われたから」
「そうですか」
 朴は出雲の良さを理解する人物が自分以外にも現れてくれたことを喜んでいるようで、その足取りがほんの少しばかり軽くなる。夜の学校に怯えていた様子はもう殆どない。
「おう。あ、出雲だけど家は近いのか? なんだったらこのまま送り届けるけど」
 時間的にはまだ余裕があるはずなので燐はそう提案する。学校の外まで連れて行くとは告げたが、門を出て「はいそれまで」とするわけにもいくまい。また家まで送り届けるならば、それはそれでこちらの仕事が終わるまで待っていてもらうこともできたが、その間、年頃の少女を人気のない場所に留まらせるのも気が咎めた。
「いいんですか?」
「良いも悪いも、俺が気絶させちまったんだし」
 そう言って燐が苦笑すると、朴もかすかに笑って「出雲ちゃんが無理するのを止めてくださったので、むしろそれは感謝してます」と答えた。
「ご迷惑でなければお願いします。出雲ちゃんのお家もそれほど遠くはないので」
「ん。任せろ」
 そんな会話を続けているうちに三人は校舎の外に出る。ラッキーなことにゴーストには出くわさずに済んだ。燐達が一時的とは言え去ろうとしていたからだろうか。
「そうそう、出雲には気絶させちまって悪かったって謝っといてくれるか? それとお前の絵を破いたゴーストは俺がしっかり祓っておくからな」
「わかりました。出雲ちゃん、怒りそうですけどね」
「だよなー。絶対怒るよなー」
 きっと出雲は親友の絵の仇を自分で取りたかったに違いない。烈火の如く怒る少女の姿が容易に想像できてしまい、燐はフードの下で眉間に皺を寄せた。
「ごめんな、出雲」


 数時間後、燐の姿は再び出雲達の中学校の敷地内にあった。
 しかしそこに気負った様子はない。何故ならば―――
「任務しゅーりょー!」
 一旦燐が学校を出た所為でゴースト達に油断が生じたのか、戻って来てからさほど時間をかけずに、燐はゴースト達の統率役を発見することができたのだ。
 見つければ最早こちらのもので、素早くそのゴーストを祓った後は、連鎖的に他のゴースト達も姿を消していった。
「こういうの、怪我の功名って言うんだっけ? それともタナボタ? あれ?」
 しばらく首を傾げたが、呆れながらも正解を教えてくれる連れ合いなどここにはいない。まあいいかと呟いて、燐はさっさと校門へ向かう。
「これで雪男はしっかり試験勉強できてるはずだよな!」
 月と桜の下、フードを取り払った燐は青い目を細めて淡く微笑んだ。



□■□



「そういやお前、将来は医者になりたいんだったっけか」
 奥村雪男は養父のその言葉に「?」とクエスチョンマークを浮かべた。
 一・二年の復習テストが終わり、その手応えに満足感を覚えていた夜のことである。
「何言ってんの、神父さん。そりゃまあ成績が良いに越したことはないけど、医者にまでなろうとは考えてないよ。小さい頃は将来の夢だったこともあるけどね」
 そう言って雪男は微笑を浮かべる。
 幼かったあの頃。泣き虫で恐がりのお前が医者になどなれるわけがないと同級生に囃し立てられ、将来の夢を書いた短冊は無惨に破り捨てられた。地面に落ちたそれを見て、

 ―――僕は誰のために医者になりたかったんだろう?

 その考えを抱いた瞬間、雪男の夢は消えたのだ。
 以降、雪男は医者になりたいなど欠片も思わなくなった。何せこの手で治してあげたいと望む人間が傍にいないのだから。
「あー……そういやそうだったか」
「そうだよ」
 気まずそうに頭を掻く養父の様子に苦笑を浮かべ、雪男は付け加える。
「今は祓魔師として成長するのが第一って感じかな。沢山の悪魔を倒して僕は僕がもう悪魔に怯えずに済むってことを自分自身に証明してみせる」
 強くなろうと決めたのは自分のため。
 守りたいと思う人は特におらず、強い養父に憧れて祓魔師になった。
 医者になるという夢は自分のためでも他人のためでもなかったから消えてしまったが、祓魔師は違う。雪男が悪魔を殺すのは自分がもう彼らに怯えずに済むということを、誰でもなく“己”に証明するためなのである。
 そう告げた雪男だったが、養父が浮かべた表情を見て内心「あれ?」と思った。何となく養父が悲しんでいるように見えたのだ。
「神父さん……?」
 どうかしたの、と問いかける。
「何か僕、変なこと言った?」
「いや。最年少で祓魔師になったどころか、いずれはお前が最強の祓魔師だって呼ばれる日も来るのかなぁって思っちまったら、な。鼻が高いっつーか、父親兼師匠として寂しいっつーか。まあ、そんな感じだ」
「あはは。でも僕が神父さんに追いつけるなんてまだまだ先のことだろうけどね」
 養父の言葉を疑うこともなく、雪男は軽く笑って答えてから壁掛け時計を見た。そろそろ明日の予習を始めないと睡眠時間が十分に取れなくなる。高校は正十字学園だと決めている――しかもできれば奨学金が貰える特待生として入りたい――ので、この一年は特にしっかり勉強しなければいけないのだ。
「ごめん神父さん、そろそろ部屋で勉強するよ」
「おう。でもあんま根詰めすぎんなよ」
「ありがとう」
 そう言って雪男は獅郎に背を向ける。
 ゆえにその後、養父が呟いた言葉は彼の耳に入らなかった。

「なあ、燐。雪男は『悪魔』を殺すんだとさ」







2011.08.13にて初出

藤本神父編、クロ編、今回で出雲&朴編が終わりましたので、次は京都組を予定。京都編→しえみ編→雪男編(ラスト)かなぁと思案中です。
朴さんは出雲ちゃんと友達になってから周りに「朴さんは優しいから神木さんに付き合ってあげてるんだよね」とか言われていそう。でも朴さん本人としてみれば、自分が優しいから(言い換えれば、出雲ちゃんを哀れんで)友達をやってる気なんて全く無くて、ちゃんと好きだから一緒にいるんだろうなー、と妄想。