猫又であるクロが『それ』と出会ったのは、祓魔師・藤本獅郎と使い魔の契約を結び正十字学園南裏門の門番となってからまだそれほど経っていない頃だった。
 きちんと監視員のいるゲートを通らず南裏門をひょいひょいと飛び越えて行こうとする影に気付き、クロはすぐさまその後を追いかけた。『それ』の動きは身軽すぎてどう見ても人間のものではなかったが、この学園の理事長の力により敷地内には中級以上の悪魔は侵入できない仕組みになっているし、また『それ』自体からも悪い気配は感じられなかったので、クロは巨大化することなくまるで動くものに興味を持ったただの猫のように壁を駆け上がる。
 一応《まてー!》と言ってみるが、クロの言葉は周囲に「にゃー」としか認識されないので無駄だろう。むしろ鳴いていることも追いかけていることも気付かれず、そのまま走り去ってしまう可能性はかなり高い。……と、思ったのだが。
「うお、わりぃ。そういやジジィが猫又を使い魔にしたってメフィストが言ってたな」
 独りごちながら『それ』はクロの言葉を聞いたかのようなタイミングで足を止め、目深に被ったフードの奥からこちらを見下ろしたのだった。
「お前が門番になったのすっかり忘れてたわ」
《おまえ、おれのことしってるのか?》
「知ってるよ。ジ……じゃなくて、藤本神父の使い魔になった猫又だろ?」
《! おれのことばがわかるのか!?》
「あー……」
 『それ』はフードの上から頭を掻きつつ小さな声で「ミスった」と呟く。どうやら本当にクロの言葉が理解できるらしい。獅郎ですらクロの気持ちは解っても言葉までは解らなかったのに、『それ』は極々自然にクロと会話ができていた。
 思わず嬉しくなって――何せクロは元々人間が好きで、話せるならば話したいと昔から思っていたのだ――わざわざしゃがんでくれた『それ』の片膝にてしっと前足を乗せる。
《おれ、くろっていうんだ! おまえは?》
「お、俺?」
 名乗らなきゃ駄目か? と聞いてくる『それ』にクロは当然だと頷いた。
《だってなまえをしらなきゃ、おれ、おまえをどうよべばいいかわからないだろ!》
「うーん、それもそうなんだけど……」
 どうして『それ』はクロに名前を教えるだけなのにこうも渋っているのだろう。何か不都合があるのだろうか。
《きょうおしえてくれないなら、またこんどおまえがここをとおったときに、いまみたいにおいかけるぞ!》
「えーなんだよそれ脅しか?」
 くすりと小さく苦笑しながら『それ』はクロの頭を優しく撫でる。それがとても慣れた手つきだったのでクロは不思議に思いつつも、撫でられること自体はとても気持ちがよく、うっかり喉をゴロゴロと鳴らしてしまいそうになった。
「でもそうなるとなぁ……。ここは結構通らせてもらってるし、となると今後はこいつと追いかけっこが始まっちまうってことになるのか? 人間なら気付かれずに済むんだけど」
 こいつは流石に無理があったか、と独り言を呟きつつ、『それ』はクロの頭や顎を程よい力加減で撫でてゆく。思考の大半はその呟きの方に向けられているはずなのに手の動きが絶妙すぎるのはどうしてか。とうとうお腹まで見せつつクロが考えて……いられるはずもなく。クロは《あーそこそこ〜》と幸せそうににゃごにゃご鳴いていた。
 しかし「あ、そっか」と言う声と共に『それ』の手の動きがぱたりと止まったことでクロもようやく我に返る。
《なまえ! なまえおしえろ! もうなでたってごまかされないぞ!!》
「誤魔化してなんかいねえって。で、名前だったな」
 フードを被ったまま『それ』は口元に弧を描き、一瞬前までクロを撫でていた手で己を指差した。
「俺、『アオ』って言うんだ」
《あお?》
 随分渋っていたのにあっさり名前を教えた『それ』改めアオの台詞にクロは小首を傾げつつ、とりあえず教えられた名前を口にする。
 確かアオとはブルーという意味だ。
《おれ、くろねこだから くろ って言うんだ! あお はどっかあおいのか?》
「んー、ん? 俺? 俺は目が青いよ」
《そっか! だから あお なんだな!》
「おう」
 あまり人型の生き物に対してそういう単純な名付け方はしないものなのだが、クロは自分がそうであるためアオの言い分を何の疑いもなく信じてしまった。アオが立ち上がると、最早友人か何かであるかのように《あおー?》と少し甘えた声で名を呼ぶ。折角言葉が通じるのだからもうちょっと話をしたいのに。
《もういくのか?》
「ああ。まだちょっと用事が残っててな」
《そっか》
 しゅん、と沈む気分に合わせて二又の尻尾もくにゃりと曲がる。それを見たアオがまた小さく苦笑してクロの頭を今度はちょっと乱暴に撫でた。
「そんな顔すんなって。俺もよくここ通るし、またすぐ会えるから」
《! そうだな! じゃあまたな、あお!》
 門番としてここから滅多に動かないクロはアオのその言葉に元気を取り戻して、尻尾をぴんと立てた。《絶対だぞ!》と言えば、フードから覗く口元が「おう」と肯定を返す。
「じゃあまたな、クロ」
 そう言ってアオはクロに見送られながら学園内へと姿を消した。
 人々に忘れ去られ、祀ってもらっていた神社も取り壊され、人に仇名すものとして討伐されかかっていたところを獅郎と出会って。獅郎はクロに「仲直りしよう」と言ってくれた。それだけで十分すぎるくらいに嬉しかったが、こうして彼の使い魔として門番になり、今日、クロはまた新たな“嬉しいこと”に出会えた。
 じゃあまたな、という言葉が頭の中で何度も繰り返され、そのたびにクロの尻尾がゆらゆら揺れる。
《おれ、ここにこられてほんとうによかった!》
 いつもの定位置に戻り「にゃおん」と鳴けば、警備員が微笑ましそうな顔でクロを見つめた。
「どうしたークロ。なんか良いことでもあったか?」
《あったよー! おれ、ほんとしあわせ!》
「ああ、なんか良いことあったんだな」
 クロの言葉が通じない普通の人間である警備員は「にゃーにゃー」と聞こえるクロの声にそう返す。アオだったら「大袈裟だな」って笑ってくれたりするのかな、と思いつつ、クロは再び「にゃー」と鳴いた。



* * *



 アオとの出会いから幾許かの月日が流れた。
 約束通り、あれからアオはちょくちょく南裏門を通ってはクロの相手をしていく。クロが普通の猫とは違い人間と同じ物を食べられると教えてからは時折差し入れまでしてくれるようになった。《おいしい! あおはりょうりがじょうずだな!》と素直に賞賛すれば、フードの下の顔が嬉しそうに微笑む。クロはそれを見るのが好きで、でもいつかはフードに隠れた青い(らしい)目も見てみたいなぁと思ってみたり。本人が望んで顔を隠しているのだから、無理強いをするつもりはなかったけれど。
 ともあれ、使い魔として契約を結んだ獅郎がマタタビ酒を持って遊びに来てくれるのと同じくらいアオの来訪を楽しみにしつつ過ごしていたある日の午後。クロはその特別嬉しいことの一方である獅郎の気配を逸早く察知してぴくりと耳を震わせた。
「よっ、クロ! 元気にしてたか?」
《しろう! ひさしぶりだな!!》
「おー、元気そうで何よりだ。最近来てやれなくて悪かったなあ」
《だいじょうぶだぞ! あおがきてくれてたから、さみしくなかった!》
 使い魔の契約を結んでいても獅郎がクロの言葉を理解することはない。したがってクロが唯一自分と会話できる存在を話題に出しても獅郎には己の使い魔である黒猫がにゃーにゃー鳴いて大層楽しそうであると判るのが精々だ。もし言葉が通じて、クロの慕っている存在が「人とは思えぬ身軽さの、料理上手な、十代前半の少年のような体格をした、青い目の持ち主」であると知ったならば、また別の反応も見せただろうが。
 現実として、感情のニュアンスは伝わるものの、クロの言葉が獅郎に正確な形で伝わることはない。これは獅郎が劣っているからではなく、単にアオが特別なのだ。クロもその辺は熟知しているので、今はひたすらに獅郎と共にいられることが嬉しくて仕方なかった。
 そうして、クロが大好きな人を眺めていると、ふとあることに気付いた。
《きょうのしろうは、なんだかうれしそうだな! なにかあったのか?》
 にゃーにゃー、にゃう? と聞こえる鳴き声に獅郎もクロが言いたいことを察したらしい。「やっぱわかんのかなー」と目元を緩ませながら獅郎は持参したマタタビ酒を皿に注いでクロを手招く。
《またたびしゅ!》
 好物の登場にクロはすぐさま飛び付き、飲むと言うよりはむしろ喰らいつく勢いで皿に顔を突っ込んだ。《うまーうまー》と連呼するクロへ獅郎は「どんどん呑めよー」と楽しそうな声を降らせる。
「実はなー、クロ。この前、俺にもう一人息子ができたんだ」
《もうひとり? むすこ?》
 クロは皿から顔を上げて小首を傾げた。
 己の主人を「とうさん」と呼ぶ眼鏡の少年がいるのは知っていたが、彼ではない別の誰かということだろうか。
「正確には戻って来たって言うべきか……。ま、ともかくまた一つ守りたいもんができたんだよ」
 そう告げる獅郎の目はとても優しげで、クロも穏やかな気持ちになる。
「ちょっとばかり厄介な星の元に生まれてきちまってるが、あいつは俺が守る。そう決めた」
《しろうはそいつがだいすきなんだな!》
「お? なんだ、クロ。応援してくれるのか?」
《するする! おうえんする!》
「ありがとな」
 そう言って笑う口元が誰かと似ているように感じてクロははてと思った。一体誰に似ているのだろう。最近も見たことがあるような……。
《あ、そっか! あおににてるんだ!》
 いつもフードを被っていて顔の見えない彼と獅郎は笑い方が同じだった。大好きな人達の共通点に気付き、クロは嬉しくなって尻尾を揺らす。
「名前は燐って言うんだ。燐が兄貴で、雪男の方が弟」
《りん? ゆきお? りんのほうがあにきなのか?》
 クロも見覚えがあり獅郎を「とうさん」と呼んでいた方が雪男で、新しく獅郎のもう一人の息子になったというのが燐なのだろう。けれどあとから彼の子供になったにも拘わらず、燐の方が兄というのはこれ如何に。先程獅郎が零した「戻って来た」という言葉と何か関係があるのだろうか。
「燐の方が雪男より少しだけ早く生まれたんだよ。だからあいつがにーちゃんで、自分は弟を守るんだって思ってやがる。……まったく、その所為で自分が傷ついてちゃ意味ねえってのになあ……」
 最後の方は少し寂しげに。獅郎は遠くを見るようにして独りごちた。
「ま、だから燐は父親である俺が守るんだけどな!」
 しかし遠くを見るような視線もすぐにクロを捉え直して獅郎はニカリと笑みを浮かべた。
「そういや燐の奴、ビックリするくれぇ料理が上手いんだぜ! この前も任務用にって弁当を作ってくれたんだが、これがまた見た目も味も最高でな。うっかり俺に女ができたんじゃないかって他の奴等から疑われちまったくらいでよー」
 いやーあれは参ったな、と困ったように笑うものの、その時のことを思い出す獅郎はとても嬉しそうだ。燐という新しい息子に向ける愛情の深さが窺い知れる。
 そんな獅郎の様子を眺めながら、クロは彼の話を聞いて一部に大袈裟な反応を返した。
《りんってやつもりょうりがとくいなのか!?》
 クロと仲良くしてくれるアオも料理が得意だったからだ。
《おれのともだちも、すっごくおいしいごはんをつくってくれるんだぞ!》
 先日は出し巻き卵を持ってきてくれた。何やらいつもよりそわそわしていると言うか、うきうきしていると言うか――でも嫌な感じはせず、たぶん良い意味での事件があったのでは、とクロは思っている――そんな感じで持ってきた黄色い食べ物を、アオは「今回は特別だから」と言ってクロに差し出した。卵はふわふわで、いつも美味しい料理の中でもダントツだった。
 アオの好物はすき焼きらしいのだが、卵焼きはまた別でとても特別なものなのだとか。
《あお、また たまごやきつくってきてくれるかなー》
「機会があったらクロにも食べさせてやるよ」
 楽しみにしてろ、と言いながら頭を撫でてくる獅郎に、クロは黄色いものから思考を一旦切り替えて《おう!》と返す。アオの卵焼きも燐という子供の料理も、どちらも楽しみだった。いずれ、獅郎にアオを紹介するのもいいかもしれない。獅郎にも燐にも似ているアオならば、きっと二人とすぐに仲良くなれるだろうから。
《たのしみにしてるぞ、しろう!》



* * *



 南裏門の上部、屋上のような少し開けた場所にクロとアオはいた。
 空中に足を投げ出す格好でアオが建物の縁に腰掛け、その隣にクロがちょこんと座っている。一人と一匹は門を通る人や車を見下ろしながら取り留めの無い話題で会話を弾ませていた。
 そんな中、一人の祓魔師が敷地外から門へと近付いて来たのを認めてアオが声を上げる。
「あ、雪男だ」
《あお?》
 アオの顔の向きを辿ってクロもその人物を見つけた。
 祓魔師の黒いコートを纏った眼鏡の少年が歩いている。柔和で誠実そうなその顔にクロも見覚えがあり、隣のアオの足を前足で叩きながら《おれもしってる!》と話しかけた。
《あいつ、しろうのむすこだろ!》
 獅郎から新しい息子ができたと聞いたのは少し前のことだ。新しい息子の方は燐と言って、雪男より少しだけ早く生まれたから彼の方が兄なのだという台詞をクロはきちんと覚えていた。
「よく知ってんなー。そうそう、藤本神父の息子だ」
《たしかおとうとのほうだよな! あにきは りん っていうんだろ! このまえ、しろうがいってた!》
「(……あのジジィめ。もうクロに俺のこと教えてやがったのか)」
《なんかいったか?》
「いや、なんでもねーよ」
 アオがぼそぼそと喋った台詞が聞き取れず首を傾げるクロだったが、そう言って誤魔化されてしまう。仕方が無いのでクロは別のことを訊いてみた。
《あおは ゆきおとしりあいなのか?》
「ん? 俺とあいつ? 残念ながら俺が一方的に知ってるだけだよ。あいつは俺のことなんて知らないし、」
 アオはそこで一度言葉を切ると、淡い笑みを浮かべる。
「むしろ、知らないままでいい」
《あ、お……?》
 小さく付け足された言葉とその時のアオの表情――とは言っても口元だけだが――を見て、クロは不思議な気持ちに陥った。彼が喜んでいるのか悲しんでいるのか望んでいるのか忌避しているのか解らない。
《あお は ゆきお とおはなししないのか?》
「しない」
《きらいなのか?》
「まさか」
 薄い苦笑を浮かべて「それはない」とアオは答えた。

「だってあいつは俺の……たからもの、なんだ」

 宝物。ならばどうして余計に近付こうとしないのだろう。
 今だってここから飛び降りれば簡単に雪男の元へ辿り着ける。アオはとても“良い奴”だから、獅郎の息子である雪男だってすぐ好きになってくれるはずだ。そうすればアオは自分の宝物と仲良くなれる。クロがそうであるように、こうしてのんびりと話をすることだって可能になるはずだ。
 クロは両足をアオの太腿に乗せて身を起こしながら、どうしてと問いかける。するとアオはクロを一瞥し、それからまた下方にいる雪男を眺めてきっぱりと告げた。
「大切だから傍に行かねえってこともあるんだよ」
《たいせつだから?》
「そう」
 アオはこくりと頭を動かして肯定する。
「大切だから守りたい。でも俺が近寄れば、大切なものを壊しちまう。だったら最初から近付かない」
《そんなのわからないだろ!》
 アオが近付いて、つまり仲良くなって、それで誰かが傷つくなんて考えられなかった。クロは声を荒げて精一杯抗議する。こんなにも想ってくれている人を前にして一体誰が傷つこうか?
 先日、クロは獅郎から燐と言う彼の息子の話を聞き、アオならばきっと燐とも獅郎とも仲良くなれると感じた。だから彼らと縁のある雪男も同じはずだと思っている。そして仲良くなるのは嬉しいことだ。楽しいことだ。それがどうして駄目なのか。傷つくことに繋がるのか。
「駄目なんだよ。解りきってることなんだ。……俺が近寄れば、あいつはいずれ壊れちまう。そんなのは、もう」
 まるでかつてそれを体験でもしたかのように、アオは膝を抱えて俯いた。
《あお……あお、ないてるのか?》
「……泣いてない」
《あお、ゆきおがいっちゃうぞ》
「そうだな。祓魔師の任務も大変そうだし、きっと早く報告済ませて家に帰って休みたいだろうな」
《あお》
「……」
《あお》
「クロ、」
《なんだ?》
 門から離れて行く雪男の姿を一瞥してクロはアオを見上げる。折角仲良くなるチャンスだったのに、アオは本当にそれで良かったのだろうか。
《あお?》
 名を呼べば、アオがようよう顔を上げた。泣いているのかとも思ったが、頬に涙は伝っていない。それに安堵すればいいのか、泣くことすらできないのかと嘆けばいいのか、クロには判断できなかった。
 でも、
「心配してくれてありがとな」
 その言葉に《どういたしまして》と馬鹿正直に返すわけにはいかないと思う。
 クロは無言のままアオの足に身体をこすり付けた。
 ここでクロがアオに訴えてもきっと彼は動かないだろう。理由は不明だが、アオは自分が近付けば雪男が傷つくと思い込んでいる。そんな状態で事情も知らないクロが何を言おうとアオには届かない。
 だから今はただ願う。
 どうかこの優しい少年がいつか彼の宝物のすぐ傍で笑うことができますように、と。







2011.07.12 pixivにて初出

実は神父さんがヤンデレにならないよう抑えるので精一杯だったり。違う神父さん今は親子愛でしょ! そんな呪文を唱えつつヤンデレ化と戦う毎日です。書き手の方が(お前か)
修正前は神父さんが、自分が聖騎士でよかった何故なら燐のことが公になったとき一番処刑人として選ばれる確率が高いのは聖騎士だから、とか真顔で言いかけていたので。自分以外が処刑人の候補に挙がることすら嫌がっていると言う……。