「さて、俺が何を言いたいか解るよな?」
「来て早々挨拶も無しですか。友人甲斐の無い男ですねぇ」 正十字学園の理事長室に足を踏み入れた藤本獅郎は執務机の前に設けられたチェアに腰掛けることなく、大きな窓を背にして座る長身の悪魔へと真っ直ぐに歩み寄った。机を挟み、座ったままの状態のメフィストを見下ろすような格好でニヤリと口の端を持ち上げる。 「ありゃ一体何だ?」 「それを知って貴方はどうするつもりですか。まさか助けてくれてありがとうとお礼を言うつもりで? それならお止めなさい。相手はそんなものを望んでなどいないでしょうから」 「……お前と関わってるってことは否定しないんだな」 「藤本がここへ押しかけて来た時点でそれを否定しても意味の無いことだと解っていますから」 軽く肩を竦めてメフィストはそう言った。 先日の任務で起こった奇妙な出来事―――。獅郎と雪男しか気付けなかったが、あの場には確かに何者かがいた。祓魔師達を助ける人間以外の何か。その出現におそらくメフィストが絡んでいるという獅郎の勘は当たっていたことになる。 付き合いの長いこの悪魔は獅郎の人となりもよく知っており、そのため無駄な否定をするつもりはないらしい。だが、だからと言って自分からすらすらとこちらの欲しい説明を与えてくれるわけではない。第一関門の突破は容易かったが、難しいのはこれからである。 獅郎は一呼吸置き、一番近くにあった客用のチェアに腰を下ろす。僧服(カソック)のポケットから煙草を取り出して「吸っても?」とパッケージを見せれば、メフィストは「構いませんよ」と軽く答えた。 「でも貴方、子供を預かってから禁煙していたんじゃないですか?」 「あ? ……まぁな」 言葉を濁しつつ獅郎はフィルター部分を咥えて火を灯す。久々に肺の中へ取り込んだ煙は記憶の中にあるよりも若干旨味が少ないような気がした。かつて自分が好んでいた銘柄と全く同じ物だというのに。 「雪男の前なら吸わねーよ」 「それがよろしいでしょう。未来ある若者の肺を今から黒く塗り潰す必要も無い」 「……」 例の任務以降に新しく購入した携帯灰皿へ煙草の灰を落としながら、心の中でだけ「やかましい」と答えておく。メフィストは何も喋らない。そのまま一本吸いきってしまい、二本目に火を灯したところで獅郎はようよう口を開けた。 「俺さ、今朝まで京都に行ってたんだ」 「存じています。京都出張所から応援の依頼がありましたからね」 流石聖騎士、ご多忙ですねぇ。と白々しい口調に「けっ」と短く吐き捨て、けれども余計なことは言わずに話を続ける。 「勝呂の奴にも会ってきた」 「お元気そうでしたか?」 「おう。相変わらずダルマみてえな奴だったよ」 「それはそれは。お変わり無いようで何よりです」 明陀宗が正十字騎士團に属す前からそこのトップであり続ける男を話題に上げつつ、獅郎は受け答えに淀みの無い友人を眺めやった。呼吸、発汗、それからおそらく脈拍も平素と何ら変わり無い。この程度の話題では全く問題にならないということなのだろう。 ならば、と獅郎は更に核心に迫ってみせた。 「ところでフィスト。京都と言やぁ、お前、倶利伽羅を何処へやった?」 「唐突ですね」 数度瞬きを繰り返し、メフィストは答える。 「何処ってそりゃあ勿論、明陀にお返ししましたよ? と言うか菓子折り持って勝呂達磨の所まで返しに行ったのは藤本、貴方じゃないですか」 十三、四年前。魔神サタンが憑依した男と祓魔師の女の間に生まれた双子のうちサタンの炎を継いだ兄の方を対悪魔用の武器とするため、獅郎は赤ん坊二人を引き取ることにした。しかし武器として育てるはずの兄は早々に父親の炎に飲み込まれ、この世から消滅してしまった。よって双子の兄が悪魔としての力を制御可能になるまでそれを封じておく道具―――降魔剣『倶利伽羅』も無用の長物となり、双子が生まれる直前に強奪に近い形で京都の明王陀羅尼宗から貰い受けたそれを獅郎自ら返しに行ったのである。 「確かにな。お前が箱に詰めて封印を施した剣を俺が京都まで持って行った。よく覚えているとも」 「ならば今更私にそんなことを問う必要などないのでは?」 「まだ恍けるか」 飄々とした態度の悪魔に獅郎は眼鏡の奥で双眸を細めながら吐き捨てた。 「ありゃよく出来たレプリカじゃねーか」 京都へ行った際に確かめたのだ。勝呂達磨と再会した獅郎は自分の勘が合っているかどうか確かめるため彼に倶利伽羅はどうなっているのかと尋ねたのである。勿論御本尊であるその剣を達磨が易々と見せてくれるはずもない。しかし――こちらは義理とは言え――同じ年頃の息子を持つ者としてこう言えば、達磨のガードも緩んだのだった。「俺の息子になったかもしれない奴と一番関わりの深い品だからな」と。 「貴方鬼ですか」 「悪魔に言われたくねえよ」 偽り半分――何せ獅郎には双子の弟ならまだしも兄の方との思い出など欠片も無く、抱く感情も薄い(はず)――のその台詞を達磨に告げるのと同時に、罪悪感とは別のところでチクリと胸が痛んだことまでは言わず、獅郎はさらりとそう返す。 (何だったんだろうな、あの痛みは……) 手を伸ばせばふわりと逃れる羽根のようなもので、それが何なのか獅郎には掴むことができなかった。 ともあれ。返したはずの降魔剣が偽物に摩り替わっていたこと、そして剣の封をメフィストが行ったことを眼前に提示して、獅郎は口の端を吊り上げた。 「しかも勝呂の奴、自分の所に帰って来たのがレプリカだって気付いていやがった。……こりゃどういうことだ? メフィスト、お前ら俺に何を隠してやがる」 「ふふ。貴方の聖職者らしからぬ性格を見誤ったのか、それとも勝呂氏の子煩悩加減を読み違えたのか……。どちらでもいいんですけどね」 独り言のようにそう告げたメフィストは獅郎をひたと見据えて答えた。 「一応言っておきますと、明陀の大僧正は詳細を知りません。まぁ彼なら色々気付いてもいるでしょうが」 「あん?」 「ちょっとあの剣で封じておきたい物ができましてね。ですから勝呂達磨に倶利伽羅をお借りしているんですよ」 「そりゃ随分と大層なモンなんだろうな」 「ええ。何せ明陀の御本尊でもギリギリ抑えられるかどうかといったところですから」 「ほほう。なるほどねぇ。抑える、か……」 煙草を指で挟みながら相槌を打ち、そうして獅郎はぽつりと言った。 「たとえばサタンの炎、とか?」 「……藤本」 「双子の片割れが生きてるんだな? そんであいつは今、お前のところにいるんだな?」 「それは早計というものでは?」 「ははっ」 獅郎は苦笑で喉を震わせる。 予想は最早確信に変わっていた。双子の片割れ、奥村燐は生きている。青い炎に包まれて焼け死んだのはただのフェイクで、本当はメフィスト・フェレスの羽の下で対悪魔武器としてこの十三年間ずっと育てられていたのだ。しかもおそらくは人間としてではなく、最初から悪魔として。でなければあの強さの説明が付かない。 飄々とした悪魔の顔をびしりと指差し、獅郎は「あのよー、メフィスト」と友人の名を呼ぶ。 「俺に京都行きの任務を回したのはお前だろ」 欠片も気付かれたくないなら日本支部長の権限で別の人間を行かせれば良かったのだ。しかしメフィストはそれをしなかった。 つまり獅郎が京都で倶利伽羅がレプリカだと知る機会を得たのはメフィストの意図するところだったということ。この悪魔は最初から奥村燐の生存をバラすつもりだったのだ。 「なんでこんなことをした?」 今まで姿を見せなかったのだから燐は己の生存を隠しておくつもりだったのだろう。しかしメフィストは今回わざと獅郎にヒントを与えていた。最初に姿を目撃されたのは燐自身だが、それを誤魔化す手段などメフィストにはいくらでもあっただろうに。 獅郎の問いかけに悪魔はニヤリと口元をこの形に変化させる。 そして、 「だってその方が面白いじゃないですか」 いかにも悪魔らしい返答だった。 「ま、藤本以外にはそう易々とバラしませんけどね。私もあの子に嫌われるのは本意ではありませんから」 なので特に奥村雪男には黙っていて欲しいのですよ、と付け足して、メフィストは一つの鍵を胸ポケットから取り出した。 銀色のそれに無駄な装飾は一切施されていない。獅郎は放り投げられた鍵を受け取ると「何だこれは」と問いかける。 「あの子が住んでる寮に繋がる鍵です。諸々の理由は本人から聞いてください」 「俺に渡しちまっていいのかよ」 「構いません」 肩を竦めつつメフィストは言った。 「それにね、面白いというのもありますが、あの子にはそろそろ私以外の理解者が必要なんです。ま、貴方が彼の理解者になれるかどうかは賭けでもあるんですけどね」 「理解者? 賭け?」 「十三年の“孤独”は人の精神を持つ者に多大なるストレスを齎します。本人が自覚していようといまいと、それは今後の行動に大きな影響を及ぼすでしょう。それが私にとって都合のいいものなら良し。しかしそうでもなさそうなのでね。貴方の行動に賭けてみることにしました」 「……」 メフィストの言うことはいまいち理解不能だった。 だが心の奥底で何かが訴えている。会いに行かなければならない。会いに行け、と。 「その鍵を使うのはいつでもどうぞ。事前に連絡をいただければ彼の暇な日時もお知らせしますよ。とりあえず今日明日は暇を与えていますがね」 その暇さえも今日獅郎がここへ乗り込んで来ることを予想して与えていたものなのだろう。燐には教えず、善意か悪意か判らない感情でもって。 獅郎は無言で銀色の鍵を握り締めた。そして椅子から腰を上げる。 これから自分がどうするかなど全く口にしない。しかしメフィストに背を向ける直前、その悪魔の笑みが更に深まったのを視界の端に捉えた。こちらの行動などお見通しなのだ。 全く嫌な奴だと胸中で呟いて、獅郎は理事長室の扉を何の鍵も使わずに開ける。いくらお見通しであってもわざわざ目の前で貰ったばかりの鍵を使う気になどなれなかった。 * * * 「ああ、メフィストか? なんだよお前、今日は珍しくドアから入ってきやがっ……て」 漫画雑誌から顔も上げずに訪問者へと声をかけた少年は視界が翳ったのを感じてようやく己の前に立つ人物を見た。黒い髪は彼の弟と全く同じで、しかし耳は尖り、背後で尻尾がゆらりと揺れる。驚きに見開かれた瞳の色は弟よりも青味が強かった。十三年前に見た青と全く同じだ。 「あ……」 少年は訪問者を見上げたまま声を失う。だが声は無くとも「なんで」「どうして」と混乱していることだけは容易く読み取れた。それに僅かな絶望と悲しみも。 ひょっとしたら我が子として育てていたかもしれない少年にそんな顔をされた獅郎は、無意識のうちに丸眼鏡の奥の双眸を歪ませる。 腹が立ったわけではない。むしろ何故か、どうしようもなく申し訳ないと思った。 (だってこいつは俺が育てなきゃいけなかった子供だ) 双子が生まれると判った時に一度はそう決めたから、ではない。そんな義務染みた感情ではない。 (俺が育てて、愛情を注いで、絶対にこんな顔をしない人生を送らせてやらなきゃいけなかった) 本人すら理解の及ばない次元で、藤本獅郎自身がそう望んでいる。 それなのに現実は理想の真逆を突き進んでいたことが悔しく、獅郎はこれ以上己の顔が歪むのを堪えるのに相当な労力を費やす必要があった。 「…………」 感情を抑えつつ獅郎は言うべき言葉を探す。しかし会わなければならないという予感に従って来てみたものの、何を言えば良いのか解らなかった。獅郎の中にあるのはまだ赤ん坊だった双子の片割れの記憶だけで、十年以上の空白を埋める経験も実績も無い。ただ妙な焦燥感があるだけで、己がこの子供に腕を伸ばして良いのかすら不明なのだ。 しかしそんな最中、大きく見開かれた青い目がじっと獅郎を見つめ、薄い唇が微かに動いた。 と う さ ん 。 音も無く紡がれたその言葉に迷いは容易く踏み越えられた。 獅郎は相手を勢いよく引き寄せ、少年の双子の弟より細い身体をぎゅっと腕の中に閉じ込める。抱擁、よりも強く。逃がしてやらないという意志を示すように、強く、強く。 己の肩に少年の頭を押し付けるような格好で半ば独り言のように口を開く。 「ああもう何なんだこの気持ちは。俺はお前の赤ん坊の頃しか知らねぇ。雪男と違ってどんな風に笑うのか、どんな風に泣くのか、どんな風に怒るのか、全然知らねえんだ。好きなものも嫌いなものも、お前が何を考えて生きてきたのかも。本当に、何も……」 (それでも、なんでだろうなぁ) 十三歳になっていたもう一人の息子の身体を抱きしめながら獅郎はぐっと強く瞼を下ろした。 「お前が愛おしいんだ、燐」 足りなかったもう一つ。初めて言葉を交わしたはずの子供にどうしてそこまで強い想いを抱けるのか、獅郎本人にも解らない。けれど熱くなる目頭は本物で、燐と呼ぶのもまるでずっと慣れ親しんできたことのように感じられた。 □■□ 「お前が愛おしいんだ、燐」 抱きしめられながら齎された言葉に燐はぐっと唇を噛み締めた。 会いたくなかった。会ってはいけないと思っていた。会えば、いつか来る『別れ』の時に悲しい思いをさせてしまう。実際に顔を合わせるまでは「好かれなきゃいいんだし」とも考えていたが、こうして温もりを感じてしまえばそんな言い訳など通用しない。 燐は“自分が憎まれるようなこと”を相手にするのも本当は嫌だった。大好きな人に嫌われたくないというのもあるが、何より相手に苦痛も苦悩も与えたくない。ただただ、幸せでいて欲しい。だから燐にとっての最良は己の存在を知られずに最後まで在ることだったのに。 (どうしよう。嬉しいんだ。ジジィが生きてる。俺を愛しいって言ってくれる。抱き締めてくれる) これは、燐の記憶の中では十五年前に失った温もりである。 心無い言葉を投げつけて養父を死なせてしまったことを燐はずっと後悔していた。どれだけ前向きに生きようとしてもそれは小さなしこりとなってじくじくと己を蝕んでいたのだ。 そんな中、何の因果か“戻った”人生で幸か不幸か取り戻した温もりを、どうして今更突き放すことができようか。 両脇に力無く垂れ下がっていた腕はいつしか相手の背に回り、黒い僧服に爪を立てる。 本来共に過ごしたはずの十三年間を別々に過ごし、相手は自分に親子の愛情など抱くはずが無いと理性は訴えるのだが、それでもこの抱擁は本物なのだと本能が感じ取っていた。どうしてなのかなんて解らない。 (だって俺、馬鹿だし) だから深く考えたってしょうがないのだと、燐は獅郎の肩口に強く額を押し付けた。 その行為に応えるように獅郎の大きな手がぽんぽんと優しく燐の背中を撫でる。 「家族になろう。いや、家族に戻ろう、か。まあどっちだっていいや。燐、もう一度俺のこと『父さん』って呼んでくれよ。今度はちゃんと声を出して、な」 「……っ!」 とうさんってよんでくれよ。 その一言がどれほど燐の心に響くのか、この人は解っているのだろうか。十三年間諦め続けたものをこうも容易く与えてくれるなんて。呼んでも良いのだろうか。声に出しても良いのだろうか。 「っ、……」 「ほら、燐」 促す獅郎の視線は優しい。まるで失われた十五年を共に過ごしたかのように。 燐は乞われた言葉を口にしようとして―――しかし、はたと気付いた。 「……燐?」 「あ、おれ」 抱擁を解き、燐は一歩二歩と獅郎から離れる。 「これ以上は……駄目、だ」 「り、ん?」 突然態度を変えた燐に獅郎は戸惑いの声を上げる。 「あんたと家族になるのは、だめだ」 脳裏を過ぎるのはかつての弟の姿。十七年間生きた己の最後の記憶だった。 家族になれば雪男や獅郎にあの悲しみと絶望を味わわせることになる。絆が深まれば深まるほど、それは余計に大きさを増すだろう。再会してしまった事実が消えぬなら、せめて将来訪れるであろう悲しみがこれ以上大きくならないように燐は振舞うべきなのだ。今はもう燐の記憶だけにしかないあの日々のように獅郎や雪男と日常を過ごしたいと思うのは燐の単なる我侭で、彼らが本当に大切なら己の望みなど捨て去り“魔神の落胤”の祓魔をなるべく躊躇わずに実行できるよう仕向けるべきなのである。 燐はぐっと拳を握ると、一度だけゆっくりと深く呼吸をした。 そして青い瞳で獅郎を見据え、 「藤本神父」 「ッ!」 燐のその呼び方に獅郎の顔が痛みを堪えるように歪む。しかしこれ以上の苦しみを与えないためにも燐は言葉を吐き出した。 「貴方と家族になるわけにはいかない。貴方に“魔神の落胤の討伐”は相応しくとも、子殺しの不名誉は必要ありません」 勿論、今は兄の生存を知らない雪男にもそれは言える。彼が背負うのは不名誉ではなく栄誉で、悲しみではなく喜びと周囲の賞賛であるべきなのだ。 「もうお引取りください」 そして二度と顔を見せないでくださいと言って燐は出入口を指差した。視線は流石に獅郎へと向けられず、じっと床を見つめる。 視界の端に映る獅郎の爪先が早く扉に向かって動き始めてくれるよう必死に祈る燐に、しかしその言葉は届いた。 「だったら余計に俺はお前と家族になんなきゃいけねえだろ」 「え、」 思わず顔を上げる。 再び見つめた先の獅郎の顔には痛みを我慢する表情ではなく、大きな決意が表れていた。 「ふじ、もと……し」 「燐、お前は俺が殺してやる」 「っ!?」 「お前が息子として父親に子殺しをさせたくないって気持ちは解る。でもよ、親だってそれなりに思うことはあるんだ」 目を剥く燐に獅郎は微笑すら浮かべて「たとえば」と続ける。 「どうしても子供が殺されなきゃいけねえ時、その命を絶つのは自分でありたい」 「なんで、そんなの」 「責任とかそんなんじゃねーんだ。ただ誰にも奪われたくない。大事な息子の最期は親である自分のモンだって、そんな情けなくて狂っててどうしようもない想いが親って生き物にはあるんだよ」 僧服に包まれた腕が伸ばされ燐の両肩に優しく乗せられる。容易く跳ね除けられるはずのそれを、けれども燐は振り払うことができない。「だから、なあ。燐」と名前を呼ばれれば、視線すら自由を失った。丸いレンズの向こうにある瞳から目が逸らせない。 「父さんって呼べよ。お前の最期を貰う権利を俺にくれ。雪男に辛い思いをさせたくないってんなら、あいつには黙っといてやるからさ。お前は兄として弟の心を守ってやればいい。でも父親まで守ろうとすんな。むしろ逆だろ? 親である俺がお前の心を守ってやる」 「っ、ぁ……」 言葉は嗚咽に紛れて音にならなかった。けれど青い瞳から零れた液体で全ては伝わったらしい。 再び獅郎の腕の中に飛び込み、燐は声を上げて泣いた。 獅郎がどう言おうとやはり彼に子殺しはさせたくない。けれど彼ともう一度家族になりたいと願う孤独も燐の中にはある。だからこれはそんな燐の心を宥めるための気休めであり、仮初の許しだ。獅郎がこう言っているのだから燐も彼に甘えて良いのだという、今にも瓦解しそうなボロボロの甘言。 (いくら俺が馬鹿だからってそれすら解らないわけじゃねえ。……でも) 殺してやるという言葉と抱きしめられた温もりは親も弟も諦めた十三年の孤独にするりと入り込んでしまっていた。 「燐、呼べ。俺はお前の何だ?」 耳元で優しい声がする。 その声に抗える気力など、本当はずっと昔に尽きていたのだ。 「……とうさん」 「ああ」 「とうさん」 強くて優しくて一番カッコイイ男。奥村燐の中のランキングで不動の一位。 そう、藤本獅郎は――― 「俺の父さんだ」 2011.06.28 pixivにて初出 |