泣きそうな顔で自分に銃口を突きつける弟の姿を朦朧とした意識の端に引っ掛けながら燐は「泣いて欲しくねえなぁ」とだけ思った。
大事な弟が泣きそうになっているのが自分の所為だと言うのは理解していたが、それでも兄として彼の涙が流れないことを願ってしまう。暴走した身体とちりぢりになった理性の狭間で、ただ、願う。どうかこの弟が泣くことなどありませんように。幼い頃に散々泣いたのだから、もう悲しみで彼が涙を流すことなど無いよう。悪魔だけれど、それでも奥村雪男の兄として、一人の人間として、燐は思う。 そうして燐は過剰なほどの青い炎を纏いながら薄く開いていた両目を完全に閉じ、 ―――パァン……っ! 銃声を耳に入れた直後、意識を失った。 * * * (……あれ?) 目を開けると、そこは自分がよく知る古ぼけた教会の天井だった。可笑しい。自分は教会を出て正十字学園の男子寮に入ったはずだ。いや、そもそも自分は――― (雪男に撃たれて死んだはずじゃあ……ッ!?) ぎょっとして燐は身を起こそうとする。だが身体が思うように動かない。それどころか自分の口から飛び出した音が、 「あぶっ!」 (ってなんじゃこりゃーっ!!!!) まともな日本語にすらなっていなかった。 天井に向かって突き出した両手は紅葉のように小さな、本当に小さな赤ちゃんのような手。すわ退行か、それとも悪魔である自分が元々の肉体を捨ててどこぞの赤ん坊にでも憑依したのか、と想像を巡らし、ざあっと血の気が引いていく。どちらにしろよろしくない。後者は悪魔でありながらもまともな人間の心を持つ者として。そして前者は完全に覚醒したサタンの青い炎に飲み込まれ、多くの祓魔師どころか実の弟に銃の引き金を引かせてしまった者として――― (どうしよう。雪男が“もう一度”俺を殺さなきゃいけなくなる) 悪魔は人間の敵だ。ゆえに祓魔師ではなく完全な悪魔に傾いてしまった燐も雪男達人間の敵だ。 雪男は悪魔を狩る祓魔師であり、つまりは敵である燐を狩らなければならない。あんなに泣きそうな顔で、「兄さん」と呼ぶ相手を殺さなければならないのだ。しかも、一度ならず二度までも。 (そんなの、だめだ。俺は、兄貴なのに。あいつにあんな顔、もう二度とさせたくねえ) 退行であれ憑依であれ、『悪魔・奥村燐』が生きているならば、雪男は再び燐に銃口を向けざるを得なくなるだろう。また、あの今にも泣き出しそうな顔で、兄さんと呼びながら、ごめんと声を掠れさせながら、死んでくれと絶望に満ちた声で言わせなければならない。 それは、駄目だ。兄として、弟にそんなことはさせられない。 ではどうする? 自殺か? ここから逃げるか? でもどうやって? 立つことも喋ることもままならない身体で燐は必死に考える。早く早くと気ばかりが急いて、ゆえに、自分が寝かされている部屋にいたもう一人の存在と、それからドアを開けて入って来た二人の影に気付くのが遅れた。 「おお、これがサタンの息子達ですか☆」 「下手に触んなよ、まだ首が据わってねえんだから」 「……藤本、貴方は本当に彼らを人間の子供として扱うつもりなんですね」 「ったりめーだろ」 視線の先の天井と同じ。この二種類の声も燐がよく知るものだった。けれど片方はいけ好かないそれ、もう片方は既に失われてしまったはずのものだ。 「あうう!」 (ジジィ!) 「おう、燐。もう起きてたのか」 寝ている燐の周りの柵――きっとベビーベッドだ――に手を掛けて微笑んだその男は、燐の記憶にあるよりも幾分若い、けれどもどう見たって燐達の養父・藤本獅郎その人だった。そして、彼の斜め後ろで燐を眺めている長身は、強大な力を持つ悪魔のくせに祓魔師である獅郎の友人を名乗るメフィスト・フェレス。 死んだはずの人間が若い姿で笑ってること、燐をからかって遊ぶこともあった悪魔がまるで初めて燐を目にしたような雰囲気であること。それらが燐の混乱を拡大させ、けれどもまさかと思って横を向けば、そこにいたのは――― (ゆき、お) 眠っている赤ん坊。しかし燐はそれが自分の半身だと確信した。 まさか、自分は退行でも憑依でもなく、“戻った”ということなのだろうか。 (ンな漫画みてーなこと、本当にあるわけが……) そう思っても、獅郎は若く、メフィストは「ふーん」と今にも燐の頬を指でつつきそうで、そして雪男はすやすやと眠っている。現実は確かにここにあった。 どうして、という驚愕はある。だが驚きの後、燐はぷにぷにとこちらの頬をつついて獅郎に怒られているメフィストを見上げながら希望の光を感じていた。 もし、もしも、だ。 (ここで俺がいなくなれば) 雪男は自分を兄と慕わなくなる。燐が悪魔として世界中の人間から死を望まれたとしても雪男が悲しみを覚えることはなくなる。――― それは、それはなんて。 (素晴らしいこと、なんだろう) キラキラと目を輝かせながら、けれどもどこか暗い色を孕んだ青い双眸に、はたとメフィストだけが気付いた。獅郎は起きた燐のためにミルクを持ってくると言い、その場から去ってしまう。 「……奥村燐くん?」 「だ!」 (おう!) 微かに見えた希望の光は燐を絶望の淵から一気に地上へと引き上げた。メフィストへの応えもそれが反映され、妙に元気な赤ん坊の声が出る。 「貴方、ひょっとして私の言ってることがきちんと理解できているのですか?」 「あいい!」 (もちろんだぜ!) 「…………」 メフィストが押し黙った。だが僅かな沈黙の後、彼は右手を燐の額に触れさせて、 (なんだ?) 「おや。赤ん坊のくせに随分はっきりとした意識を持ってるんですね☆」 (え、なにこいつ。まさか俺の考えてることが解るのか!?) 「そうですよ☆ にしても不思議な。やはりサタンの炎を継いだ子供だからでしょうか?」 ちらりと眠ったままの雪男を一瞥し、メフィストは兄と弟の差に考えを巡らせたようだった。 燐はそんなことはどうでもいいとばかりに、自分の意志がはっきり伝えられるこの状況を諸手を挙げて歓迎し、言いたいことを言うなら今のうちだと頭の中で叫ぶ。 (なあメフィスト・フェレス! あんたに頼みがあるんだ!!) 「……私、貴方の前で名乗りましたっけ」 (その辺の理由も後でちゃんと話すからさ! だからなるべく早く俺をここから連れ去ってくれよ! できれば死んだこととかにしてさ!!) 「はあ? いきなり何を言い出すんですか、この赤ん坊は。いや、赤ん坊ではないのですか?」 (身体は赤ん坊だけど中身は奥村燐十七歳だぜ) 「ほほう」 燐の答えにメフィストは口の端を持ち上げた。 「それはそれは。なんだか大層面白いことになっているようですねえ」 悪魔が笑う。それはもう愉しそうに。 その笑みに未だ悪魔として覚醒していないはずの燐もまた微笑んだ。これで養父はサタンに乗っ取られずに済み、自殺も免れる。そして弟もまた絶望と悲しみに彩られながら銃の引き金を引かなくて済むのだと。 赤子の見た目をしているくせに赤子が絶対しないような光と闇を孕む瞳で燐は両腕をメフィストへと伸ばす。 ―――さあ、悪魔よ。俺の願いを叶えておくれ。 2011.06.14 pixivにて初出 |